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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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閉じられた世界の片隅から(4・完結編)

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6. 時の向こう側へ


 心が、ついてこなかった。
 どうして、自分が涙を流してるのか、わからないぐらいに。
 膝から、力が抜けた。
 それすら、自分で理由がわからないぐらいに。
 頭は、動いていた。だから、理屈では説明できる。今の状態を。
 だけど、それと嗚咽する僕の身体とが、切り離されているようなそんな感覚がした。
 感情は身体に置き去りで、それが僕を動かしているのは確かだ。だけど、異常なほど冷静な思考が、泣き叫ぶ僕を少し離れたところから見ている。まるで、僕という人間の、感情と思考が切り離されてしまったみたいに。
 それから、数日間、一体どう過ごしてきたのかすらわからない。だけど、今、僕は冷たくなったフィズを背負ったまま、長年育った家の前に立っていた。割られた窓硝子に映った僕の頬は重病人のようにこけていた。多分、あれからなにも食べていないからだろう。酷く、喉が渇いていた。
 帰っては、きた。だけど、これからどうすればいいんだろう。
 母屋は、思ったほど壊されてはいなかった。むしろ窓とドアをぶち破ったのはフィズかもしれない。
 一歩立ち入る。歩くたびに積もった埃や小さな虫の死骸が舞い上がる。食器棚や引き出しは、ひっくり返されていた。多分金目のものや貴重品は持ち去られているんだろう。窓硝子は一枚と無事なものはなかった。蛇口を捻っても水は出なかった。管理する人のいなくなった水道は、もう機能していないんだろう。隙間だらけになってしまった家の中は、鼠が走り回り、掃除するものもない部屋の隅には蜘蛛の巣がいくつもいくつも掛かっていた。
 更に歩みを進める。湿気の多い水周りには、黴が大量に発生していた。排水溝付近の床板は徐々に腐敗が始まっていた。
 人の動きのない空気はひたすらに停滞して、まとわりつくように重い。それでも、今にも妹たちが賑やかにどこかのドアを開けて飛び出してきそうな、そんな錯覚を、僕は覚えた。
 重くて動かせないテーブルはそのまま。周りに椅子が散乱し、いくつかは脚が折れていた。それなのに、テーブルを囲んでじーちゃんとばーちゃんが半ば笑いながらちょっとした言い合いをしているのが見えるような気がした。
 だけど、それをどう感じたのか。それすら僕は自覚できなかった。身体が、勝手に動いていた。何処へ歩くのか、何をしているのか。わかるのに、理由が自分でわからない。
 僕の足は止まらなかった。もはや役目を果たしていない玄関をくぐりぬけて外へ出る。窓もドアもなく、風が吹き込み放題になっているとはいえ、家から一歩出ると冬を間近にして風は肌を刺すように冷たかった。
 庭を横切る。何処へ向かっているかはわかっていたのにそれがどうしてなのかがわからなかった。僕の手は、離れの玄関のドアノブを捻った。鍵がかかっていて開かない。こちら側の玄関は壊されはしなかったのだろうか。診療所側の出入り口に回ってみると、そちらは戸が外されており、こちら側から侵入したことがわかる。診療所には薬壜が散乱していたが、たいしたものは残されていなかった。元々、悪用できそうな薬は事前に処分していたし、慢性疾患の治療薬だとか、体質改善系の薬ぐらいしか残っていなかった。それでも、割れた薬壜の中身を舐めたのか、一定の場所で集中して虫が死んでいた。
 住居部分に入るための鍵も壊されていたけれど、むしろ都合が良かった。靴を脱ぎ、そこから踏み込む。母屋と違って棚や貴重品のない離れの居間は、母屋のそれほど荒らされてはいなかったけれど、やはり長いこと掃除をしていないためか、埃が溜まり、蜘蛛の巣が張られていた。恐らく水周りの状態は、居間と変わらないだろう。
 階段を上っていく。こんなに、急だったっけ。疲労のためかもしれないし、背中にある重みのためかもしれなかった。
 一歩、僕の部屋に踏み込む。収納が多いためか、今まで見たどの場所よりも激しく荒らされていた。本棚を見れば、機械の専門書がごっそり消えていた。じーちゃんが外国で買ってきてくれたものだ。もしかしたら、貴重なものだったのだろうか。
 背負っていた荷物を置いて、それから、僕はまた部屋を出た。
 隣の扉を開けて、……僕は、思わず笑ってしまっていた。笑った理由はわかった。部屋が、荒れ果てているのか荒らされているのかがわからなくて、笑ってしまったんだ。
 フィズの部屋は確かに荒れていた。床には物が溢れ返り、足の踏み場所もない。ベッドの上にも本や服が積み上げられ、かろうじて人がひとり寝る分のスペースだけが確保されている。引き出しや収納の蓋は開けっ放しで、その理由は蓋が閉まらないほどに中身が多いからだ。
 前から、こんな部屋だった気がした。泥棒が入ってもわからないとばーちゃんは呆れ果てていたけれど、その通りだった。ばーちゃんに咎められて、慌てて部屋の片づけを始めて、それでも結局片付かないで困り果てるフィズの顔が、目に浮かんだ瞬間。
 涙が出た。どうして。悲しいから。なんで?
 フィズが、いない。この部屋にいるのに。どうして目を覚ましてくれないんだ。死んでいるから。
 それが、とても、悲しかった。
 背中で冷たくなっているフィズが、何も言ってくれないことが、悲しかった。
 帰ってきたよ。この家に。フィズの部屋に。
 誕生日に、間に合ったよ。約束は果たせた。
 だから、笑ってよ、フィズ。
「フィズ」
 名前を呼ぶ声は、嗚咽混じりで、ちゃんと呼べたかどうか、自分でもわからない。背中からは、なんの返り事もない。
 そういえば、あの日からずっと、フィズの顔を見ていなかったことに気付いた。
 背中から、フィズを降ろす。その身体は、あまりにも軽かった。目に入った掌は血の気が引いて真っ白く、蝋のようだ、と思った。
 黒く艶やかな長い髪は元気な時と、何一つ変わらない。派手さはないけれど端正で整った顔立ちも、まるで眠っているように綺麗だった。
 だけど、目を開いてはくれない。あの宝石の双眸で笑ってはくれない。
 あの風のように透明な声で、僕の名を呼んでくれることもない。
 表情が変わることは、もうない。三秒と同じではいないくるくる変わるその表情が、好きだった。怒った顔も、驚いた顔も、困った顔も、笑った顔も、ふざけているときも、なにか企んでいるときの少し悪い笑顔も、全部、好きだった。泣き顔も綺麗だけれど、悲しむところは見たくなかった。
 僕より三つ以上も年上なのに、全然しっかりしてなくて、ばーちゃんには僕がフィズの面倒を見ているとまで言われてた。だけど僕が弱っているときは、いつも僕を引っ張って、守ってくれた。いつだって、フィズがいたから、前を向けた。頑張れた。子供の頃からずっと、何が起きてもフィズさえいてくれれば、なんとかなると思っていた。だから、安心して、先へ進めたんだ。どんな遠い場所にでも。どんな、辛い出来事にも。
 優しい、姉さんだった。大好きな、家族だった。何に代えても守りたい、一番、大切な人。僕のたったひとり、かけがえのない、大切な。
 抱きしめた身体には体温はなかった。ただただ、冷たかった。触れても何の反応もない。鼓動も、聞こえない。