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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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Another Tommorow

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Chapter.1 暗号のワルツ




 暗闇ですらなかった。
 ここにはなにもない。ここ、さえもない。
 なにもない。きこえない。みえない。感じない。意識さえも、拡散して、消えていく。
 ああ、これ、が、
 
 
 十二月だというのに、酷い汗だった。起きぬけから呼吸が苦しい。肺が大きな手で締め上げられているみたいだった。
 はっきりと覚えてはいないけれど、多分昨日と同じものを見たんだろう。振り払いたくて窓を開けた。刺すような冷たい空気が吹き込む。室内と外の温度差が大きいほど、勢いは強くなるのだっただろうか。数学と化学がどうしてもできなくて医学部を諦め、理系科目は事実上生物一本で受験を乗り切ってしまったにわか理系の脳味噌では思い出せない。
「寒……」
 冷たさに頭を刺されたように、急激に意識が覚醒していく。呼吸が楽になっていく。目の前に景色があることに安堵した。時計を確認すると、5時58分。一限に間に合う時間だ。
 だけど、動きたくなかった。なにもしたくない。今日から循環器病棟での実習が始まる。普段の講義ならまだしも、いくらなんでも実習は絶対に遅刻できないことはわかっているけれど。それに今日は確か。
 ドアノブの捻るがちゃりという音が聞こえた。同時に目覚まし時計の秒針のかちりという音が耳につき、ジリリリと鳴り始める。どちらも律儀すぎるぐらいに時間に正確だ。
 ドアが開くと同時に、目覚ましを止めた。
「おはよ、大和」
 振り返らなくても、そこに誰がいるのかを飛鳥は知っている。どんな格好でいるのかも。常に余裕を持って行動するしっかり者の弟は、もう既に制服を着こんでいるはずだ。だけど今日は間抜けにも、後ろ髪が思い切りはねていて、それに本人は気づいていない。
「後ろ髪凄い寝癖。直さないと駅でうっかり出くわした石井に大爆笑されるぞ」
「……そこまでわかってんなら、起こしに来させる必要ないだろ」
 一瞬間があって、明らかに不機嫌そうな声で大和は言った。少しだけ楽しくなって振り返ると、制服をきちんと着て、前髪はしっかり整えられているのに後ろ髪だけが四方に跳ね回っているという迂闊な姿の弟がこちらを軽く睨みつけていた。
「悪い悪い。わかったの寝る直前だったから、お前もう寝てたし、どうせ早起きなんだしそのためだけに起こすの悪いかなぁって思って。起こしに来てくれてありがとな、大和」
 素直に感謝しておけば、それ以上ぶつくさいう弟ではない。「早く用意しなよ。ぼんやりしてるとすぐぎりぎりになるんだから。あと窓閉めろよ。暖房もったいないし」と小言を残して出て行った。
 来てくれて助かった。弟とのやりとりがなければ、それこそ言われた通りいつまでも開けっ放しの窓の外を見るでもなくぼんやりと時を無為に過ごしたことだろう。窓を閉め、深くひとつ呼吸をする。冷え切ってしまった部屋の乾いた空気が飛鳥の肺を満たした。
 
 
 
 今年の杉宮は、雪が少ない。山のほうとはいえ元々太平洋側に位置するこの町は降雪が少ないのだが、それにしても今年は2cmと積もったことがない。それでも気温は例年以上に冷え込んでいて、草木の枯れた灰色の風景は雪があるときよりも更に寒々しく感じられる。一応新幹線も特急も止まる駅がありながら、林業と製材以外にまともな産業はなく過疎化が進んでいることも、より寒さを感じさせるのかもしれなかった。材木の町として長年栄えてきただけあって、立ち並ぶ家々はしっかりとした木造の古い住宅が多く、空襲に見舞われることもなかったため江戸時代から残っている家もそこまで珍しいものではない。それでも、近年は安い輸入材に押されて林業も製材業も廃れる一方だ。年々空き家が増えていき、抜け殻となった家は見た目でそうとわかるほど、急激に色を失っていく。町全体が少しずつ少しずつ、年老いているような、そんな気がした。
「雪だるま作れないなぁ」
「……この年になって?」
「や、作ってあげたら小児病棟の子たち喜ぶかなと思って」
 残念だな、と呟いて、大和の顔をちらりと見た。呆れたような表情は、少し薄れている。
「兄さん、小児科向いてると思う」
「そう?」
「子どもと同じ目線で遊べるだろ」
「はは、お褒めに預かり光栄」
 何割かは馬鹿にされてるのだろうなとは思う。近所の子どもたちと遊んでいる間にいつの間にかリーダーに祭り上げられ、小さな子を引き連れて山に探検に行き、挙句の果てに道に迷って救助隊が出る騒ぎになり、警察からも散々絞られたのは一昨年のことだ。小さな頃はよく懐いてかわいかったはずの弟の態度がこんな調子になってきたのも、その頃だったか。
「でも俺救急志望なんだよ」
「知ってる」
 どこまでも淡々としたリアクション。だけど、「あ、そう」じゃなかっただけいいかなと、飛鳥は思った。
 自宅から2kmのところにある、杉宮南駅は小さな無人駅だ。いつも飛鳥と大和はここから電車に乗る。2駅向こうの杉宮駅で乗り換え、そこから隣町の梅山立城の駅までは快速で10分ちょっとだ。飛鳥の大学も大和の高校も梅山立城市内にある。飛鳥が実習や一限講義で朝早い日は、大和に起こしてもらいそこまで一緒に登校していた。ご近所からはこの年になっても一緒に学校に通う仲良し兄弟、と評判が立っているが、目的地も時間も近いのだから普通じゃないかと思う。わざわざばらばらに行くほど仲が悪くもない。
 その時、不意に視覚が切り替わった。一瞬立ち止まる。周りの景色が、音が、温度がすべて唐突に変化する。今自分のいる場所はどこだ。今はいつだ。飛鳥は目の前に広がる世界を確認した。衝撃とざわつく車内、止まった電車。それから。
 その間、およそ10秒。だいたいの状況は把握した。
「大丈夫?」
 何が起きていたのか、察してくれたのだろう。戻ってきたここで、いつもはうっかり景色に見惚れたりすれ違う犬に気をとられたり少しでもぼんやりするとすたすたと先に行ってしまう弟が少し心配そうに待っていてくれた。呼吸を整える。少し、疲れた。頭が痛い。
「大和、五百円ぐらい出せるか? 杉宮までタクシーで行こう」
「……理由は?」
「踏み切りで飛び込みが起こるよ」
 不意に、窓から見えてしまった赤いものが脳裏を過って、それを振り払った。このまま杉宮南駅から電車に乗っていたとしたなら、それを目にすることになる。杉宮南駅の近くには古い、どうみても最先端の医療が行われているとは到底思えない滲みの入った灰色の鉄筋コンクリート製の精神病院がある。中に入ったことはないが、飛鳥の学ぶ大学の付属病院の精神科とは入りやすさが段違いだった。一度入ったら二度と出られない、治らない病。そんな一昔以上前の精神病院の佇まいは、それでもこの町の精神科はここ一軒だからか、潰れないでそこにある。そのせいか月に一度ぐらいはこういうことがあるのだ。道が曲がりくねって細いこの界隈では、電車と車の速度は段違いだ。今からタクシーに乗っても、学校には間に合うだろうが、飛び込みには間に合わない。
 こみ上げてくる吐き気と悔しさを心の奥底に沈めて、飛鳥は表情を取り繕った。
「一応、通報しとくよ」
作品名:Another Tommorow 作家名:なつきすい