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千夜の夢

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11.ファーストキス





何も変化が無かったわけじゃない。
あれからしばらくはずっと平穏な日々だったのに間違いないけれど、何も変化が無かったわけじゃない。あの日はきっと、油断しすぎてしまったんじゃないかと思う。あまりにも無防備なあなたにも、そんなあなたを甘く見ていたオレにも、あれはきっと二人に下った天罰かなにかだったのかもしれない。油断が招いた「事故」と呼ぶべきかな。



「千笑さん、コーヒー」

今淹れたばかりのコーヒーを千笑に差し出し、彼女の隣に腰掛けた。

「ありがとうございます」

いつものように優しく微笑みカップを受け取る。もうすでに彼女の“適温”に冷まされたコーヒーはわずかな湯気を上げ芳しい香りを漂わせている。

「やっぱり天才ですね、冴さんは」

その言葉と笑顔を受けて、冴の頬も緩む。彼女に望むものなんて何もない。そこへ居てくれるのならばそれだけで十分だった。周りから見ればきっと奇妙に見えるはずだ。中学生のオレと、千笑さんとでは何もかもが不釣合いで非常識だった。もしこの事が周りに知れれば、まず責められるのは間違いなく大人である彼女なのは明らか。やっと繋がったこの想いは誰にも理解されるはずも無い。息子である士以外には誰も。しかし、オレ達は世間に恥じるような事は何一つしていない。ただ同じ時間を過ごし、せいぜい彼女の小さな手を握るくらいでそれ以上の事は何も無い。でも、その小さな触れ合いひとつをとっても胸が激しく躍った。その些細な出来事にこの身が千切れそうなほどの愛しさが生まれた。とてもじゃないけど、これ以上の事をして身を滅ぼさない自信なんてない。誰より近くで彼女と時間を共有できれば、それ以上望むものなんてないんだ。出来るだけ近くで、身も心も触れ合っていたい。それだけ。そんな想いが講じてか、彼女の睫毛の一本一本が見て取れるほど間近に迫っていた。近づきすぎてしまっている事に気づきもせずにその長い睫毛を見下ろす。冴は決して大柄ではなかったが、中3男子の平均身長は十分に満たしていた。小さな千笑を見下ろすほどに。何も考えず、ただ彼女の睫毛をじっと見た。彼女が瞬きするたびに、不思議な気分に陥る。

―生きてる。

当然の事だけど、それはとても重要な事実で冴は小さな感動を覚えた。口唇から微かに漏れる吐息にそっと耳を傾ける。

―呼吸をしている。

確かに繰り返される息遣いにほっと安心する。何も今日明日彼女が消える心配などないはずなのに、ふと不安に駆られる時がある。夜はことさら酷い。眠る前に彼女の声が聞きたくなる。

―こんなのバカみたいだ。千笑さんはオレの手を取ってくれて、傍に居る事を許してくれた。なのにそれだけじゃ不安だなんて…。何も求めてないなんて嘘だ。次から次に欲求が生まれては消滅して…その繰り返しだ。こんなんじゃ身が持たない。いつか千笑さんに酷い事を強要しそうで怖い。どっちにしても最悪だ。

「あの、冴・・・さん?」

彼女に呼ばれてハッと我に返る。気づけばギュッと彼女の手首をきつく握り締めていた。

「ぇ、あ!!ごめん!」

慌てて放すと冴が握った跡がうっすらと赤く残った。

「ごめ、痛い?」

今度はそっと優しく触れる。慎重に彼女の表情を窺った。

「そんな大げさな・・・大丈夫ですよ」

元々下がり気味な眉をさらに下げて笑った。いつも思うのだけれど、彼女と接していると十以上の年の差などまるで無いのではないかと錯覚する。信じられないほどに、幼い少女のような愛らしい顔をしてみせるのだ。

「珍しい顔してましたね」

「え?」

「ココ。皺が寄ってました」

そう言って千笑は冴の眉間を人差し指で突いた。

「ぁ、ウソ・・・ごめん」

冴が眉間に皺を寄せる事は別に珍しい事でも何でもないのだが、千笑の前となると話は別だ。彼女の前では驚くほど穏やかになる。険しい表情など見せたことが無かったはずだ。

「具合でも、悪いんですか?今外では熱風邪が流行っているそうですけど・・・」

不意に身を乗り出し、冴の額に自分の額を当てた。ふんわりと優しい香りがする。そして気づいた時にはもう手遅れ・・・。後ろから彼女の頭を抱え込み、引き寄せた後だった。

―別に初めてじゃない。千笑さんだってそれは同じなはず。

そう考えたら余計に腹が立った。腕の中で千笑の体がどんどん強張っていくのが分かったが、止められなかった。やっと口唇を離した時には、もう遅い。どっと後悔。千笑は固まったまま何も言わず、じっと冴を見上げている。

「ご・・・め、ん。あ・・・オレ―ッ」

バカみたいに混乱して何度も「ごめん」を繰り返す。泣き出したい心境だった。そこで、彼女の表情がやっとほぐれた。

「冴さん、今日謝ってばかりじゃないですか」

ふわふわと愉快そうに笑う彼女。

―あれ・・・。

「怒らない・・・の?」

恐る恐る千笑に視線を合わせる。

「なぜ怒るんです?初めてのキスだったんですよ、私」

「は?」

―はぁああああああ?!!

「初めて、ってオレとって意味だよね?人生で初めてって意味じゃない・・・よね?」

まさか幾らなんでもそんなはずはないよな。

「人生で初めてって意味ですよ?」

ニコッと笑ってサラリと言った。

―冗談じゃないぞ上條父。子供まで作っといてそこだけ避けたのか?

「ど、どうしたんですか冴さん・・・変ですよ?」

―いや、変なのはあんた等夫婦だから。

「・・・てゆうか、あの・・・やっぱ、ゴメン」

「え?」

「やり直していい?」

「やり直す?」

「だって・・・今のは、あんまりだよ・・・酷かった」

「え?そうでしょうか?」

「そうなの!だって初めて・・・って、も・・・本当ゴメン」

「何か不満でも?」

「不満に思うのは千笑さんでしょ?」

「私は不満なんてありませんよ?」

―恐い。知らないって恐いんだ・・・。

「〜ッ。とにかく、お願い。もう一度・・・目、閉じて」

面と向かって仕切りなおすのが妙に恥ずかしくて赤面する。千笑はまだ不思議そうに首を傾げていたが、言われるままに目を閉じた。



ファーストキスの記憶は、ちゃんと“やり直した方”で覚えておいてよね。これでめでたくオレは身の破滅へのカウントダウンを始める事になったんだから。



作品名:千夜の夢 作家名:映児