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真夏の夜の夢

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2.

 誰が云い出したものやら、鬱蒼と生い茂る竹林の向こうには鬼が棲んでいると近
隣の子供達は本気で信じていた。かさかさに枯れた竹の葉は剛達の足元で小さな音
を響かせる。

「なあ、ほんま行くんか? この辺で引き返したほうがええんとちゃうか?」
足を引きずる少年と剛の後ろで誰かが云った。
「なぁに怖じけずいてんねん、まだ入り口やで」
「せやけどここに来たんバレたら怒られんで。…わい、帰るわ。」
他の子供達も互いに顔を見合わせ、頷き合った。
「わ、わいも帰る。怒られたないし。」
「せや、わいも。ごうちゃん堪忍なっ」
ひとりが口にしたのを幸いに子供達はおのおの引きずられるように云って、ひとり
またひとりと踵を返し始めた。後に残ったのは剛と、探検をしようと云い出した少
年だけである。
「…どないする? 剛も帰りたいんか?」
提案を無視された彼は面白くなさそうに云ったが、剛はううんとかぶりを振った。
「ここまで来たんやもん、わい、行ってくる。中田はここまででええよ。その足や
もん、無理せんほうがええわ。すぐ帰ってくるよってここで待っとってや」
中田と呼ばれた少年に云われるまでもなく、剛自身ここには興味があったのであ
る。大きな瞳を輝かせて剛はネットに包まれたサッカーボールを肩にしたまま、さ
らに竹林の奥へと足を向けた。

サラサラと笹が鳴る。夕暮れの竹林は足元で小さな音を響かせるだけで、誰ひとり
としていない。
深い、静寂。
(…ほんまに…鬼なんて、おるんやろか?)
ふいに噂を思い出し、剛はぶるっと震えた。風に鳴る音が耳をかすめてゆく。風の
音に何故かか細い悲鳴のような音が混じる…ような気がした。
「しっかりせえよ!」
剛は頬をぴしゃぴしゃと叩き、自分に喝をいれた。手入れのされていない竹林はた
だでさえも薄暗い。剛は後ろを見ないように足をすすめていく。知らずに歩幅は狭
く、小走りに近くなっていた。
しばらく歩くと竹林はふいに途切れ、目前に視界が広がった。
その向こうに古風な屋敷が見えた。人の気配はない。その隣にこれも年期の入った
道場らしき建物があった。恐る恐る、近付く。
(あ…誰か、おるっ。)
格子の隙間から覗くと、小さな素足が眼に入った。
「やああぁっっ!」
いきなり澄んだ声が辺りに響きわたる。
思わず剛は声を出しそうになったが、それさえ止まった。次の瞬間、息を呑んで彼
は目の前の光景に魅入った。そこには稽古場にひとり、夢中になって竹刀を振って
いる子供が居たのだ。年の頃は剛とそう変わるまい。だが夕日に照らし出されたの
は、ぞっとするほどの美貌の少女だった。
 白い着物に濃紺の袴姿。肩で切り揃えられた艶やかな髪がほんのりと上気した頬
に張り付いている。誰もいない空間に向かってその子は竹刀を振り下ろす。その度
に汗が光る。静と動が見事に調和している光景…。
(お…お姫サンや…)
思った途端、かっと頭に血が昇った。
「誰やっ!」
気配を感じ取ったとでもいうのか、振り返った少女と視線が絡み合う。たおやかな
容姿とは裏腹に、それは恐ろしくきつい眼差しだった。そこだけが唯一、光彩を放
っているかのような美貌の中でそぐわないほど凄まじい気迫を感じさせた。塊のよ
うな意志の力が剛を圧倒する。
「あ…か、堪忍…っ…」
つぶやいて剛はかぶりを振った。
そしてそのままきびすを返し、後も見ずに駆け出した。こんなふうに誰かに背を向
けたことなど一度もなかった。例え年長の男子でも、複数相手でも後ずさる事さえ
なかった剛である。母との約束でこちらから手を出すことはなかったが、蹴られて
も殴られても相手の眼を恐れず睨み返した。それだけで相手は戦意を喪失したもの
だ。…けれど。
訳も判らぬまま竹林を抜けて、逃げるように走っていた。

 元の場所に戻ると中田がすかさず声を掛けてきた。
「ど、どないしたんや、剛。顔、真っ青やで…。あれ、ほんまやったんか? 何が
おったんや?」
矢継ぎ早に尋ねられる言葉に剛は青ざめたまま、無言で何度もかぶりを振った。何
ひとつ答えられなかった。口にしたら今見た光景がすべてうたかたのように消えて
しまう。自分でも判らない取り留めもない感情に、剛は震えたまま家路を辿ってい
た。

 その夜、布団に入ってから剛は母の胸に縋り付いてわあわあと大声で泣いた。な
にが哀しかったのか、剛はただそうするしか出来ないように泣いた。
「どないしたん? 大っきななりして赤ちゃんみたいやねぇ。」
母の呆れたような言葉も耳に入らなかった。
夕暮れの道場で一心不乱に竹刀を振るっていた少女のことばかりが脳裏に焼き付い
て離れなかった。整った顔だち、切れ長の双眸と赤い唇。自分や自分の周りにいる
子供達とは別世界の人間のようだった。すっきりとした背中には甘えのかけらすら
もなかった。
それが美しければ美しいほど剛は哀しかった。
 あれはきっと囚われのお姫様に違いない、と剛は思った。でなければあんなにも
寂しそうな背中をしている訳がない。まるで見えない敵と戦っているように悲壮な
後ろ姿だった。
(…わいが…わいが助けたる…!)

 母の胸に縋り付いたまま剛はそう決心した。


                                  つづく
作品名:真夏の夜の夢 作家名:JIN