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粒マスタードワルツ

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 生まれてこのかた、マスタードについてどう思うのかなんて一度も考えた事がなかった。何しろ、俺にとってのマスタードは遊園地で食べるホットドッグにケチャップと一緒にかかっているあの辛みのある黄色い奴でしかなかった。しかも一緒にデカイ口を開ける相手はいつも違った。初デートの時限定だったのだ。俺は必ず、初めてデートする娘とはまず遊園地に行ってホットドッグを食べる。その食べ方によってセックスをするか、しないでそれっきりかを決めるのだ。所謂判断基準の脇役だった。もちろん脇役だって重要だ。しかし、どうしてそんな事をするようになったのか。
 俺が一番初めに遊園地に行って、ホットドッグを食べたのは小学生の時。相手は母親だった。それから数日後に母親は変態に襲われ無惨に殺されてしまったが、とても女らしい仕草と雰囲気をした人だった。彼女は、小さかった俺のホットドッグにまで間違って大量にかけられた、その偽物みたいな真っ黄色の小辛いやつを綺麗に拭き取ってくれたのだ。それから、ふんわりと笑って自分のホットドッグを上品に口に入れた。そのソーセージとパンのくわえ方、食べ方があまりに綺麗で、子ども心に思わず母親の口元に見とれてしまったのだ。恐らくそれがきっかけだったと思うが、ハッキリとはわからない。思い出は思いの出る素。思いが発生する原因もしくは基盤となる過去の記憶。それはあながち間違っていない。それが物事を考える時の物差しの要素の1つになっている事は確かだと思うから。それはギターの弦を調整するように、時々必要にかられて現れては俺の考えを細やかに調整していく。気付かないくらいにこっそりと。連鎖とでも言うのか。マスタードの思い出も何かの要素に使われている。本当か?
 とりあえず、俺はそんな事を踏まえて連想できる言葉を思いついた順に適当に並べて、適当に言ってみた。
「俺にとって、マスタードは純情な欲望の3分の1と曖昧な潜在意識との間を彩る繊細な名脇役だと思います」
「ほほう。実に興味深い見解をお持ちですね。そうですか。成る程ね」
 その言い方の一体何が気に入ったのか不明だが、次の日から俺はその工場に通う事になった。そして、初めて粒マスタードなるものの存在を知ったのだった。

 俺のよく行く飲み屋のミレットは、銘々勝手に持ってきた楽器で、飲みながら好きにセッションできるような店だった。ミレットのママは恐らく50代くらいの、大らかで優しくて評判の大柄美人だった。俺はコンピューター会社に勤めていた頃からここによく来ていて、ギターを習ったのもここだった。残念ながら、もう他界してしまったが有名なクラシックギターの老先生が常連として来ていて、隣合わせて飲み合ううちに親しくなり、酔っぱらいのふざけ半分で無料で教えてもらったのだ。お陰で、ちゃんと習いに行っていないくせに、そこそこの曲なら即興で弾けるようになった。
 もちろん今でもよくギター片手によく通う。その店には様々な人も楽器を持った人も来ていて、眺めているだけでも楽しいのだ。常時、店のお抱えアルバイトの演奏なんかもあって、ちょっとしたコンサート気分を味わえる。バーテンダーの男の子もハーモニカーを吹くし、ママはチェロを弾く。ピアニストもいるし、歌い手もいる。常連にはバイオリンを弾くのもいるし、マンドリンを習い始めたのもいる。中にはウッドベースを抱えてくるのまでいる。そして適当に知ってる曲でセッションしたり、踊ったり。とにかく稀に見る楽しい所だった。
 面接の帰り道、ミレットに寄って、ママに喜び勇んでマスタード会社に就職が決まったと報告した。これで、大腕振ってミレットに飲みに来れるよと言うと、ママは子どものようにおかしそうに笑って、ナイチンゲールのような冴え渡る美しい声で言った。
「そのマスタードならうちの店でも使っているわ。あれは香りが抜群に良いから、マスタードと言えば、私はLascia Ch’io pingaよ。名前も素敵よね。でも、あれが日本産だと知った時には驚いたわ。日本の技術もまだまだ捨てたもんじゃないのね」
「俺は、その技術を維持していく為に頑張るよ!」
「ええ、ええ。無理せず、楽しくね。私ね、蓋を開ける度に、あの香りを嗅ぐ度に思うの。Lascia Ch’io pingaには何だか音楽に似たような楽しい要素がたくさん詰まっているって。きっと働いている人達の気持ちなんだわと、いつも思うの」
「へぇ」
 マスタードに音楽? 楽しい要素? そんな事、思った事もなかったな。その前に、そんなに余裕のある食べ方でマスタードを食べた事がない。前にも挙げたように、俺にとってマスタードの思い出は遊園地の売店で売られているホットドッグだけだった。
「今はわからなくても、理解したいと思う気持ちがあればいつかわかるわ。人は相手は誰であれ、言われた事に対して自分の興味や関心がなければ、有難いお説教も入っていかないし飲み込めない。意味がないの。肝心なのはそれが自分にとって必要か必要じゃないかと、それをわかる時かどうかなの。それはほんの些細な事で簡単に変化していくから、自分ですら判断出来ない事もあるわ。でも、あとで思い出して使えるように、頭にストックしておくと便利よ」
 不思議な顔をしている俺に、ママは穏やかにそう言ってキッチンに入っていった。
 ママが言っていたように、確かに人は誰かに何かを言われても、簡単には素直に聞かないし実行しない。仕事や命に関わるような事は別だが、友達や家族や上司、恋人だって色んなケースでそれはあり得る。特にそれが批判を含んだ類いのものなら自分を攻撃するものと見なし、無意識に耳を塞いで自分を守ろうとする。相手の話すボリュームを小さくする。俺にもそういう傾向はあった。人の話を聞かないなんて言われるのはよくあるし、人に注意されても聞けないのだ。気を付けてはいるのだが、なかなか治らない。ま、いいや。要は、誰でも自分から助けを求めたりしない限りはおせっかいに口を出さない方が良いって事。いくら言っても言われても無駄。いや。しまっておくなら言われた事、聞いた事は無駄にはならないか。ママの言葉は頭の何処かにしまっておこう。なんだか良い傾向だ。好転の連鎖。俺はその晩、心底いい気分で酔っていた。
 カウンターに半分前屈みに寄り掛かって、ウイスキーを片手に演奏を聞いていた。ハーモニカとギターだった。弾いているのはクラシックだろうか? ちょっとギターを弾けると言っても、あまり音楽に詳しくない俺には幅広い分野の事は正直よくわからなかった。しかし、心地良いメロディーに引きずり込まれてうたた寝をしそうになった。
 まったく。音楽と酒なんて、切っても切れない恋人同士だ。空間までが違って見える。別世界に連れていかれたようにいい気持ちになってそれが終わるのが惜しくなってくる。リベルタンゴ。これは知っている。昔、同僚に誘われてタンゴ教室に見学に行ったな。そいつは奥さんと習うんだとか何とか言って。俺には関係ないのに連れていかれた。その時にかかっていた。印象的な力強い曲だったので覚えている。
作品名:粒マスタードワルツ 作家名:ぬゑ