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粒マスタードワルツ

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不意に風が強く吹いてきて、自転車を走らせる俺の顔に、ぱりぱりに乾いたミイラ化した落ち葉をぶつけた。背中のノースウェストのリョックの中には、ついさっきスーパーで買い物した食品が、たくさん入って窮屈そうに僅かに揺れている。顔にぶつかった落ち葉はあまりに乾き過ぎていて、些か肌に不快感を感じたが、そんな事等気にならないくらいに俺はご機嫌で、ペダルに乗せた足に力を入れて滑らかな風のように進む。
 天高く水色セロファンのように空は澄み、空気は曖昧なオブラートみたいにどっちつかずに纏わりつき、通り過ぎて行く木々はまだ紅葉には少し早かった。今はちょうど、季節の切り替わる中間に位置する中途半端な時期。そこを切り裂きながら、中途半端な俺が口笛を吹きながら自転車で脱兎の如く駆け抜ける。目指すは彼女の住むアパートだ。工場が休みの日は、こうして彼女の家に行くのが俺の日課のようなものだった。
 俺は飯を作る。彼女の為に。ついでに彼女の娘の為に。それだけの為に今日も彼女の元に足繁く通う。例え、邪険にされても俺は気にしない。彼女の為に、飯を作れれば俺はそれでいいのだ。百歩譲って、食後のセックスがお預けになっても。
「ねーえ、ダーリン!今日のご飯は、なーに?」
 彼女の6歳になった娘の桃が、包丁でネギを切る俺の横から覗き込んで来た。
「んー? 今日は、スキヤキだよー」
「何それー? どういう食べ物?」
「桃はスキヤキ、食べた事ない?」
 桃は少し首を傾げて、中指を下唇に突き立てて、更に目を三角にして変な顔をした。桃の考えているポーズなのだ。
「うーん。知らない」
「スキヤキって言うのは、牛肉とか、ネギとか、白滝とかをぐつぐつ煮たお鍋みたいなのだよ」
「あ! 桃、お鍋って知ってるよ!ずっと前に、ママとしたよ!」
「そうそう。それの、もうちょっと色が濃い茶色のやつ」
 俺はそう言いながら、ネギを笊に移して、白滝の水を切った。木綿豆腐と焼き豆腐どっちを入れようかと思い、どっちも入れる事にした。
「桃、白滝ね、好きなんだよー!でも、お肉の方がもっと好き!ダーリンは?」
「俺はネギだな。もちろん肉も」
「ねえ、ダーリン。ママに合鍵貰えば? いつも桃が帰ってくるまで待ってるの大変でしょう」
 そうなのだ。俺はいつも彼女の家に着いても、桃が小学校から帰ってくるまで中に入れない。彼女が仕事に出ている間、鍵を持って早く帰って来るのは桃だけなのだ。
 俺はまだ、彼女から正式に合鍵を渡されてはいなかった。でも、別に待つのが苦痛ではなかったし、熱い季節には買ってきた生物なんかは気になったが、煙草を吸って缶珈琲を啜りながら桃が帰ってくるのを待つ時間も、何となく嫌いではなかった。
 時々、彼女が仕事が早く終わって桃と一緒に来る事だってあったのだ。遠くから手を繋いでのんびり歩いてくるあの親子を眺めるは好きだった。
「うーん・・・けど、ママにも色々事情があるだろうからね」
「桃がママにお願いしてあげるよ!」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。きっとそのうちにくれると思うから」
「そう。そっかぁ」
 そんな会話をしているうちに玄関の扉が開いて、彼女が騒がしく帰ってきた。彼女は長年新聞屋で働いていたが今日で退職して、ずっと念願だったヨガ教室を晴れて開けるようになったのだ。だから今日はお祝いだった。ビールも買ってきた。
「ただいま〜あ〜終わったぁ! 桃、ちょっと手伝って〜」
 桃が口を尖らせて、横ばいになって向かった。何やら買ってきたらしい。玄関が騒がしい。俺はそれを聞きながら、材料を鍋で炒め始める。肉は固くなるので、4分の1だけ入れる。芳ばしい臭いが部屋に充満し始めた。
「あ〜 いい匂い〜!こうやって、帰ってきたらご飯があるのって幸せね〜 いつもありがとう!」
 彼女はそう言って俺の頰に、ただいまのキスをした。彼女の肩までの色素の薄い髪からは、俺の好きなハーブやお香の混じったような匂いがした。
「どういたしまして」
 スキヤキが美味しそうに湯気を立てる食卓を3人で囲んだ。アパートのキッチンは狭いので、俺は玄関側に座布団を敷き、桃は部屋側に毛足の長い敷物の上に座り、その同じ敷物の上に彼女は冷蔵庫を背に寄り掛かって座った。その敷物は横に長いだけなので、俺の所には届かないのだ。ま、いいけど。
「長い間、お疲れ様でした!夢の第一歩おめでとう!」
 缶ビールに桃もピーチジュースで乾杯した。彼女は心底嬉しそうに笑っている。良かったなぁ。ずっと仕事の事は気にしていたから。
「ありがとう〜!もう幸せだわ!ふにゃふにゃ〜」
「桃も、ママのお教室のお手伝いに行くんだ!」
 口に肉を頬張り、更に次々と肉を欲張って自分の皿に積み上げながら桃が言った。
「そっか。俺も習おうかな。ヨガ」
 彼女が肉ばかりかっさらう桃に、野菜を取り分けてやりながら楽しそうに頷いた。
「うん!そうしなよ!昔、やった事とかあるの?」
「太極拳をちょっと」
「え!うそ!すごいじゃん!」
「まあな」
 俺は鍋に肉とネギを追加した。彼女が徐に冷蔵庫から乳白色の瓶を取り出した。
「マスタード、スキヤキにも合うと思うの」
 彼女は大のマスタード通なのだ。というか、何にでもマスタードをつけたがる。特にこの乳白色の瓶に入った粗挽き粒マスタード、Lascia Ch’io pingaが彼女の食卓の恋人だった。彼女の浅黒く細い手がその瓶を取り扱っている様は、不思議と食卓に良く似合う。『私を泣かせてください』と言う意味の名前が金と紺色の二重で印刷されている生成り色のラベルが貼られた乳色の陶器瓶。まるで、彼女の心の台詞のようにも思えてきてしまう。だけど、良きにしろ悪きにしろ、俺はまだ一度も彼女を泣かした事はない。順調に進んでいるんだと思える、2年目。

 そもそも俺と彼女の親しくなったきっかけも、このLascia Ch’io pingaだった。このマスタード、名前こそ大層な横文字を使っちゃいたが、実は日本で、しかも俺の働く小さな下町のしがない工場で鯖缶みたいに黙々と作られていた。その工場は工場長と奥さんで作ったもので、2人共マスタードが大好物だった。
 世界中のマスタードを食べ歩き、何とか日本で自作出来ないかと研究に研究を重ね、ようやく出来上がったのがこのLascia Ch’io pingaだった。
 1つ1つ手仕事なので生産数自体があまり多くないが、無添加、無着色、無香料にこだわって食材を選ぶような飲食業なんかの顧客も割と多くついていて、その味に知る人ぞ知るような存在のマスタードだった。確かにLascia Ch’io pingaは美味いのだ。それは、声を上げてしまう程、或いは唸ってしまう程の美味さだった。
 俺は33の時に、それまで勤めていたコンピューター会社のリストラに合って、路頭に迷っていた時に、ちょうど求人誌に掲載されていた見落としそうなくらいに小さい募集広告を見つけて応募したのだ。社員として採用されて以来つつがなく日々を送っている。その面接で工場長から聞かれた妙な質問を、今でもよく覚えている。
「君はマスタードについてどう思うのかね?」
作品名:粒マスタードワルツ 作家名:ぬゑ