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ぬるま湯

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「今の言葉で、三年はまた心の平穏が保てそうだ」
 彼の目尻に浮いたしわを見て、私は絶句した。今の言葉で三年も? 私はどれほど彼に甘えていたのだろうかと暗い気分になる。言わなくても解るだろうなんて、勝手に思い込んでいた。だって、一緒にいるんだから……。
 告白したのは、彼。好きだよと言ってくれた。ごく稀に、今でも言ってくれる。
 でも、私は?
「今、反省してる? それか、あることないこと考えてる?」
 いたずらした子供のような笑い顔に変わった。その彼の顔を見て、計算された言動だったと気付いた。この男は、本当に私をよく見ている。
「試したわね」
 怒っていないと言えば嘘になるが、それよりも、してやられた感が私を包んでいた。爽やかで、ほんのり涼しい。初夏の日陰で頬を撫でる風のようだ。なんとも気持ちが良い。
 大きく鼻から息を吸い、彼にも聞こえるように勢いよく空気を押し出す。
「いやいや。試したわけじゃないよ。でも、そう言ってくれるように仕向けたつもり。見事、成功」
「不安になってた?」
「不安……っていうのかな。言葉で聞きたかったんだと思うけど。不安っていうのとは違う気がする。小夜子の口から言葉として聞くのと聞かないのとでは、心のゆとりが違うかな」

「言うのと言わないのとでは、明らかに違ったわ」

 彼は不安じゃないと言ったけれど、それに似た感情があったはず。私の胸の内を探りに来てくれた彼は、きっと考えた末に行動に移した。どうしたら理屈っぽい私が素直に口を開くか。あごの下に人差指を添えて、一連の台詞を考えてくれたに違いない。そんな彼を見過ごしてしまった。
 はいと私が左手を出すと、彼はうんと言って手を握ってくれた。手を繋いで、彼のカサカサの手のひらの感触を楽しむ。
「来たばかりだけど、帰ろうか」
「私も言おうと思っていたの。人が多すぎて疲れる。慣れない事は、あんまりするもんじゃないわね」
 握られた左手から、彼が大袈裟に肩をすくめるのがわかった。ぎゅっと力を込めて握られて、私もそれに応えるように握り返す。
「慣れない事をするために、小夜子をここに連れてきたからね」
 私の手を放すことなく、商品に気を取られてゆっくり歩いていた婦人を上手によけて、彼は得意げに言った。普段通りのしゃべり方だったけれど、その声はくすぐったく私の鼓膜を震わせた。
「過去三年のとりまき。お互いがお互いに影響し合ってるんだから、とりまきがなかったらって考えるのは、やはり無理ね」
 こんなやり取りに勝敗はつかないはずだけれど、私は完敗だった。
 完敗したけれど、幸せな気持ちで人混みの中を歩いた。
 休日のデパートも悪くない。

作品名:ぬるま湯 作家名:珈琲喫茶