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ぬるま湯

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「小夜子は、オレを愛してはいないんだよ」
 
 休日の遅めの朝食をとった後、デパートに買い物に行こうと言いだした、付き合って三年になる彼。混雑する店内を人とぶつからないように気をつけながらも、普段とまるで変わらない歩調で進んでいたのに、普段だったら予想もしない事を言いだした。隣を歩く彼からの声ではなかったのかもしれないと、歩を止めて顔を覗く。そこには私の良く知る、いつもの男の顔があった。不意に乱れたテンポに、前を横切った年配の女性を上手くかわすことができず、軽く肩が触れてしまった。すいませんと反射的に声を出したが、その女性の返答は聞こえなかった。何も言わなかったかもしれないが、言っていたとしても、私にはどの道聞こえてはこなかったと思う。
 周りの喧騒が、唐突に遮断されたからだ。両耳を手のひらで塞がれる時のように、空気が内耳で動き、自分の呼吸音が近くなり、血の廻る音が聞こえた。この男が今のフレーズを言ったのだろうか? 私はまじまじと彼を見つめて、小首を傾げる。
「何? 突然」
「いや、なんとなく。そう思ったんだ」
「ずっと思ってた、んじゃなくって? 今、そう思ったの?」
「うん。今、そう思ったんだ」
 和やかに言う彼の声だけは、やけに鮮明に聞こえた。耳元を覆っていた膜が、徐々に溶けていく。人の足音、笑い声、話し声、紙袋の擦れる音、店内に流れる有線。一方的に入ってくるだけの雑音が、鬱陶しかった。ほんの数分前、刹那に襲ってきた静かな空間が、もう少し長引いても良かったなと思えた。
 驚きすぎたのだろうか?
 呆気に取られたのだろか?
 いや、疑ったのか?
 澄ました顔で隣を歩く彼は、やっぱりいつも通りの足取りだ。私の愛情を全否定したくせに、悪びれた様子はない。とはいえ、私を問い詰めるような素振りもない。
 歩きながら白昼夢でも見ていたのだろうか。
「今のとりまきがなければ、小夜子はオレと一緒にはいないと思うんだ」
やはり、夢ではなかったようだ。周りのざわめきには無視を決め込んで、彼の言葉を拾い集める。
「とりまきって? 仕事とか? 家族とか?」
「そう、全部。仕事も趣味も。家族、友達なんかも。オレの周りにあるもの全部」
「全部――ねえ。遺伝子って外見や性格に大きく反映されるとは思うのよ。でも、周りのとりまきも少なからずあなたの人格に影響しているはずだし。とりまきがなかったらって想像は、難しい気がする。
 仮説を立てるのは好きだけど、私が違う仕事をしていたらあなたに出会えたかとか、あなたが今の職場にいなかったら私は恋をしていたかとか、お互いの趣味、嗜好が全く違ったら三年も続いたかとかっていう話は、堂々巡りで結論が導き出せないわ。それは、どこまで行っても仮説だし、定説として断言は不可能よ。だって、私は今のとりまきの中にいて、あなたも今のとりまきの中にいる。今現在では変えられない過去の出来事として、私たちは出会ったんだから」
 彼はうーんと唸って、人差指を鉤爪(かぎづめ)のように曲げてあごの下に添えていた。何かを考える時の彼の癖だ。三年前もそうやって私を口説いてくれた。考え続ける事が苦手な私は、彼のこの考える姿に惹かれていった。いつ何時も、常に彼は真っ正直に思考する。どんなに理不尽で不条理な事にも、感情で結論を出すことはしない人だと思う。だから、理屈っぽい私の話にも律儀に答えを模索する。
「じゃあ、今のオレのとりまきが変わってしまったら、それはこれからの事として考えるだろう? 不治の病に侵されているとか、ギャンブルにはまったとか――」
「そうね。それでも今日、明日では決められないと思うわ。私の想いを決めつけてしゃべってくれてるけど、私の意見は一切含まれてないわよね、その中に。すらりと断言されて、否定するのも忘れていたけど、私はあなたの事をちゃんと好きよ」

「――――ありがとう」

 彼がつくった一瞬の間に、私の鼓動が高まった。
 私、いままでこんなにはっきりと、自分の気持ちを声に出して言っていなかった。頭で考えるより、胸の内に仕舞っておくより、声で紡ぎ出すと口と頭と耳とで三度もおいしい。理屈を捏ねるより、簡単な言葉で、ストレートにさらっと。
 ――ちゃんと好きよ。


作品名:ぬるま湯 作家名:珈琲喫茶