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川辺にて

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私は、故郷の町を流れる川の土手の上にいる。橋桁に打ちつける水音と橋を渡る車の音が聞こえる。遠くでジングルベルが流れている。時々、すれ違う人の、砂利を踏む足音が聞こえる。自転車が通り過ぎることもある。懐かしさよりも違和感をおぼえる方言で、早口のおしゃべりも通り過ぎる。会社や学校から人々が帰ってきた。彼らの中には私を薄気味悪がる者もいるだろう。髪の薄くなったさえない中年男が、海から吹きつける寒風の中で、爪を噛みながら、うつけたように西の空を見ているのだから。
動揺すると爪を噛む。いつの間にやら噛んでいる。ついに克服できなかった子供のころからの癖だ。死んだ父や祖父も噛んだ。いとこたちも噛んだ。子供のころにいとこたちと会うと、足のも噛むかあ、と聞かれたものだった。
午前十一時に東京駅を発って、一時間前に博多駅に着いた。ここに三十分前から立ちっぱなしだ。
私は今夕焼けを食い入るように眺めている。それにはわけがある。

勤めている銀行の秋期定期検診で引っ掛かった。きょうは朝九時に癌研で、二回にわたる検査の結果を聞かされた。
「相当に悪いです。即入院、即手術です。こんなになるまでほったらかしといて。自業自得ですよ。ご家族に今すぐ連絡してください」
私と同年齢ぐらいの小太りの医者が、私の顔を見ず、早口で静かに言った。そむけた横顔からだけでも苦虫をかみつぶしたような形相をしているのがわかった。そのまま私の反応をじっと待っていた。
一回目の検査のとき、この医者は、定期検診の結果を見て、私をどなりつけた。この時も横を向いたままだった。
「あなた、去年もおととしも、定期検診を受けてないじゃないですか。どうしてそういうこと、したんですか」
二回目の検査では、医者には会わずに、検査室をいくつかまわった。宇宙飛行士の訓練のように、ベッドに貼り付けられて、回転させられた。軽い吐き気を催した。何度も腹に細い針を突き刺された。麻酔無しなのに痛くないのがかえって気味悪かった。生体標本採取なるものだそうだ。
わたしは、今日もどなられるのは覚悟で病院に行った。
医者の言葉はどなられるよりもさらに恐ろしい内容で、私を狼狽させた。そんなことになっているとは知らなかった。しかし、当然知っているべきことを知らなかったといい訳をする無責任さに我ながらうんざりした。何度も同じ失敗を繰り返してきた。今回はさすがにつくづくしまったとは思ったが、医者の命令にはすぐに従えない事情が私にはあった。なんやかやと事情を持ち出すのもまた何度もやってきた不甲斐ない行為だった。
私が世田谷支店の支店長を勤める銀行が、ほぼ同格の市中銀行と統合する話が三年前に持ち上がった。去年おととしと検診をサボったのは、私が医者嫌いで健康に自信があったからでもあるが、統合準備に多忙を極めたからでもあった。私は、たかが一支店長ではあるが、自銀行の支店長会議の副議長で、相手銀行との合同支店長会議の実行委員を務めている。私は個人として、統合時までに、どうしても名前を売り実績を作っておかねばならない。新銀行の本店勤務となり、あわよくば平取締りとして残れるか、それとも、地方の支店の支店長に格下げか、最悪の場合は大量リストラの波にさらわれるかの瀬戸際に立っている。ポストの現状維持はまずないとのうわさが飛び交っている。統合は来年の九月だ。正念場なのだ。
「おっしゃるとおりです。反省しております。ただ、今会社が大忙しでして、入院など、とてもとても。一年延ばせないでしょうか?」
私はそういいながら、それどころではないだろうとおびえていた。案の定だった。医者は回転椅子を回して、私を初めて面と見た。顔を赤らめて仁王のように怒っていた。
「それは問題外ですね。医者のいうことは聞くもんです」
「どうして、一年延ばせないんですか?」
私は相手の迫力に圧倒されながらもおずおずと尋ねた。
医者は、椅子に座ったまま、私のほうにいざり寄った。椅子についているキャスターが耳障りな音を立てた。彼の膝と私の膝がぶつかった。彼は、三白眼で私を睨みながら、額を近づけてきた。荒くて臭い息を吐きかけてきた。完全に切れていた。
「それはですねえ、一年後にはねえ、あなたはもういないからです」
「何ですって!」
私は驚きのあまりめまいがした。シーッ、シーッという耳鳴りが始まった。
「進行性膵臓癌の末期です。一応ステージ4ですが、ステージ10とでも言いたいですな。もう膵臓は実質的な機能をはたしていません。融けかけています。すでに転移が発生しています。大腸癌が、そら豆大のもので一個、小豆大で三個、米粒大で十個、見つかっています。いずれも進行性です。手術をしなければ、余命六ヵ月から九ヵ月です。手術をしても、術後三年の生存率は五パーセント未満ですがね。私はこれ以上、もう何も申し上げません。ここでは携帯は使えないので、外の廊下の突き当たりの公衆ですぐにご家族に連絡してください」
私は、立ち上がると深々と礼をした。医者はそっぽを向いていた。
かばんを持って外に出た。確かに左側の廊下の突き当たりに二台の電話が備えてあった。その電話はゆらゆら揺れていた。私はそれに向かって歩いていった。途中で、ひどい非現実感に襲われた。壁も天井も、自分が交互に突き出す靴先も、この世のものとは思われなかった。今にも掻き消えるかと思われた。
途中にエレベーターの乗降口があった。ちょうどドアが開いた。下りだった。私はふらりとそれに乗りこんでしまった。激しく重力の感覚が狂った。自分が自分の体から頭のてっぺんを通り抜けて立ち上るようだった。一階に着き、ドアが開くと、私は一瞬躊躇したが、会計もせずに駆け出した。エレベーター内での浮遊感覚が消えない。脚が絡んで転びかけた。あの医者が追ってこないか、などと妄想して、後ろを振り返った。受付嬢と目が合った。彼女は、小さく口を開いた。
バスに跳び乗り、池袋駅前のロータリーで跳び下りた。危うく膝をつきそうになった。そこには、たくさんの車が、時計回りに渦巻いていた。私の頭の中を広場にぶちまけたようだった。私は、恐怖に駆られて、山の手線に走りこんだ。
 あれだけ一所懸命だった会社のことが、頭からかき消えてしまった。どうでもよくなった。窓から外をもっとよく見るふりをして涙をぬぐった。窓の外の景色は、初めて見るものだった。そんなはずはないのだが、いつまで見ていても全部が初めてのものだった。
作品名:川辺にて 作家名:安西光彦