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うそみたいにきれいだ

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8月26日 まばたき停電

(雨彦さんと雪丸さん)



商店街にアーケードはなかった。
どうしてかはわからないけれど、どうしてもアーケードはないのである。
通り雨の雲なんかにも大抵まるごと入ってしまう小さな街の、小さな商店街というか商店通りは吹きっさらしの雨ざらしで、今日みたいな嵐の日には普段から人けのないところへ更なる終末感を醸し出している。

店内に避難してきた顔なじみの猫があわや布張りのハードカバーに飛び乗ろうとしたところをつらまえて足を拭いてやっていると、入口の引き戸がけたたましく開かれた。
同時に、大きな影がするりと侵入してくる。
びくりと固まって耳をたてる猫と俺の注目のなか、登場の勢いに反して、弱々しく引き戸は閉められた。
肩で息をするその大きな影、店内はいつもほの暗いけれど今日は嵐のせいで輪をかけて暗いのでそれはもう本当に影でしかない、は、パーカのフードを被っているらしい間のびした形で、ああまたなんか避難してきたんだなと俺は思った。
猫を解放して卓上ランプを点ける。
こちらに気付いた細長い影は、あわてたようにフードをぬいで、ひょいとおじぎをした。

「すい、ませんあの、ちょっと、かくまってください」
「あ」
「え、」
「雪丸さんだ」
「…………あっ」
「はい」
「まひこくん!」
「はい、お久しぶりです」

嬉しそうに指をさされて、てっぽう雨をかぶってさんざんなその風体とのギャップに少し笑った。
いそいそと卓上ランプのもとへ馳せてくる影に、飛んで火に入るなんとやらがよぎる。
何してるのとこちらをのぞき込んだ前髪からぽたぽたと雨つぶが落ちて、出しっぱなしの帳簿のふちに水玉のしみをつくった。
猫が啄木のにおいをかいでいる。

「わあ。ごめん」
「いいですよ、油性なんで。すいませんそこ、椅子、そんなんしかないんですけど」
「あ、これ」

廃校になった小学校から店主さんがもらってきた音楽室の椅子は、手足の伸びきった大人の男をのせても少しもきしまない。
雪丸さんが軽いのかもしれない。
猫がブロンテを倒して飛びすさる。

「俺、ここが古本屋なの全然知らなかった。何の店なんだろってちょっと思ってたけど」
「でしょうね。看板出てないし」
「しかも雨彦くんがいるし」
「店番するようになったのは最近なんですよ。店主さんがおじいさんなんだけど、体調崩しちゃって」
「そうか」

あ、沈黙。
と思ったけれど、それはまるっきりラジオのバックミュージックみたいに、空白には雨の音が流れ込んでくる。
猫もひと声ニャアと鳴いた。
差し出した指先をなめてもらって満足そうな雪丸さんは、括られたまま平積みされている文庫本のタワーのあいだへ、細ながい脚を器用に伸ばした。
フリーハンドで書いたようなやわらかい直線が二本。

「なんか、雨彦くんと話ができる日ってだいたい雨が降ってるな」
「ああ。そういえばそうですね。まあ雨彦ですしね」
「ふふ、ね、」

肩をすくめてほほ笑む。
ほほ笑むだなんて恥ずかしい表情、小説の中のものでしかないと思っていたけれど、この人は本当にほほ笑むという顔をする人だ。
その人は今くちびるをかっことじたまま、ほの暗いようなうす明るいような嵐の日の通りをぼんやりと眺めている。
文章表現的な横顔を見つめて、その鼻先が少し赤くなっていることに気付いた。

「寒い?」
「……ん、」
「眠い?」
「うん、」
「寝たら死ぬよ」
「はっ」
「嘘ですよ。お茶いれてきます」

立ち上がろうとしたところを、やにわに引き止められて中腰になる。
肘をやわらかく掴む手になんですかと聞き返すために息を吸い込んだけれど、くしゃみになってしまった。
猫が朔太郎の上で顔を洗っている。

「寒い?」
「んや、あの、猫が」
「猫。アレルギー?」
「うん」
「じゃああの子、のら、」
「そう」
「優しいんだなあ。雨彦くん」
「そうでもないです」
「雨彦くん」
「はい」
「僕は今、すごく眠いんですけど、死ぬ前に君に言わなくてはいけないことがある」
「ん? うん」

ガラス戸の向こうにフラッシュをたいたような稲光りがして、卓上ランプのあかりが一度、二度、音もなくまたたいた。
しずかな奥二重が目の前にある。
下まつげの際が暖色のあかりを照り返して、濡れたように光っている。

「僕は、君を、お慕い申しております」
「相当眠いんですね」
「泣きたいのかもしれないです」
「……あの。それってさ、」

間をおいて三度目、かすかにりんと音をたてて、それきりランプは点かなくなる。
つめたい鼻先が顎にあたる。
首もとでまつげがまたたくのを感じる。

遠くで雷鳴が続いている。
猫が朔太郎の上で寝返りをうつ。
俺はくしゃみをして、死んだふりをする大きな猫背を撫でた。



作品名:うそみたいにきれいだ 作家名:むくお