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Pure Love ~君しか見えない~

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5、和解




 数週間後。未だ素直になれない幸は、真由美に手話サークルへ出席するように何度も誘われたが、講師に和人が来ているかもしれないと、顔を出すことも出来なかった。それを知ってか知らずか、幸が和人と会う機会はなかった。

 ある日の休日、幸はピアノの練習を終え、修吾と束の間のデートを楽しむと、一人暮らしのマンションへと帰っていった。そこは、同じ大学に通う女子学生専用のマンションであり、楽器も大丈夫なマンションである。
 駅から十五分ほど歩くそのマンションは、近くにコンビニエンスストアなどもあるものの、住宅街の中にあり、夜は静かで暗い。幸も一人で帰る時は、心なしか早足になるくらいだ。
 今日も辺りはすっかり暗い。表通りから住宅街に差しかかった頃、幸の耳に後ろから足音が聞こえてきた。ちょうど、“ちかん・ひったくりに注意”といった看板が見えたので、幸は怖くなって走るように歩き始める。
 少し行くと前を歩く人が見え、幸は少しホッとした。その後姿は男性のようだが、これで一人の帰り道ではなくなった。幸はそのまま、前を歩く人と付かず離れずの距離を取りながら、早足で歩き続けた。

 それから数分が経過しても、後ろにはまだ気配が近づいていた。しかし振り向く勇気はない。遅くなった日は、いつもこの道は恐怖心を煽る。
 家までもう少しのところで、幸は恐怖に耐え切れず、突然走り出した。このまま走れば、家まではあとわずか。後ろを歩く人物にも、前を歩く人物にも、自分の家を悟られることもない。そう思った矢先、幸はつまづいて倒れてしまった。あわや、前を歩く人物を追い越そうとした矢先であった。
 恥ずかしさで真っ赤になった幸に、すっと手が伸びてきた。するとそこには、和人がいる。
「……和人……」
 幸は驚いた。前を歩いていた人物が和人だったことに、まったく気づかなかったのだ。
 和人も驚いた様子で、幸を見つめている。そんな二人を、後ろから歩いてきた人物が追い抜いていった。特に知り合いでも変質者でもなかったようだ。幸は安心しながらも、和人を見て固まった。
(……大丈夫?)
 顔でそう言いながら、和人が幸を起こす。
「う、うん。平気……」
 和人に支えられ、幸は立ち上がった。
 暗い道路には二人だけとなっていた。派手に転んだため、ストッキングは破れ、スカートの下に見える膝からは血が出ている。どうやら転んだ原因は靴のヒールのようで、右足のヒールが根元より折れていた。
「ああ……」
 絶望的な靴に落胆する幸を見て、和人はしゃがみこみ、負ぶされと言わんばかりの姿勢を見せる。
「い、いいよ、そんな。恥ずかしいし……」
『……誰も見てないし、それじゃあ歩けないよ』
 辺りに人が誰もいないことを確認すると、和人は静かに手話で語りかける。面と向かって、幸が和人の手話を見るのは久しぶりのことだ。
「でも……」
 そうは言うものの、幸の足に激痛が走った。どうやら挫いたようである。
 そんな幸を前に、和人は言葉を続ける。
『それに、裸足で帰るつもり? そのほうがみっともないよ』
 和人の言葉に、幸が吹き出した。確かに言われた通りである。和人はもう一度、背中に負ぶされとアクションを起こす。幸も静かに頷いて、和人の背中に負ぶさった。和人はそのまま幸を背負い、静かに歩き出した。
 真っ暗な道は、もはや歩く人影もない。二人だけの世界がそこにあった。
 幸は人差し指で家までの順路を指示すると、和人は黙ってその方向へと歩いてゆく。思えば小さい頃、和人を背負うことはあっても、年下で小さかった和人に、自分が負ぶさることはなかった。和人の背中は、もう成人男性と同じくらい、広い背中をしていた。

「ありがとう……」
 部屋の玄関で、幸が手話交じりにそう言った。そんな幸に、和人は首を振ってすぐに背を向ける。
「あ、上がっていって」
 帰ろうとした和人に幸が言った。和人は少し驚いた顔を見せ、断りの手と首を振る。
『いいよ』
「お願い、少しだけ……お礼も言いたいし、話したいことがあるの……」
 幸が言った。その切実な目を見て、和人は少し考えた後、頷いた。
『じゃあ、少しだけ……』
 和人は緊張気味に、幸の部屋の中へと入っていった。

 二人は互いに緊張していた。幸は恋人の修吾以外の男性を部屋に上げたことはなかったので、少し軽率だとも思ったが、相手が和人なので心配はいらないと思った。
 和人は和人で、長年避けていた幸の部屋へ招かれ、戸惑いと複雑な感情を入り乱せていた。
「どうぞ」
 幸がお茶を差し出して言う。和人はペコリと頭を下げて湯飲みを手に取るものの、間が持たないといった様子で、目を泳がせている。
 そんな和人に、幸は突然、頭を下げた。
「ごめんなさい!」
 目の前の幸に、和人は首を傾げている。
『……なに?』
 人差し指を振りながら、和人がそう尋ねた。
「ごめんなさいって……ずっと謝りたかった……」
 手話交じりに幸がそう言ったことで、和人は心当たりを探した。そして何を謝っているのか、和人も理解する。互いに避けていた原因であろう。
『……何も気にしてないから、謝らなくていいよ』
 和人が、静かに微笑みながらそう言った。幸は不安げな表情で、和人を見つめている。
「でも……」
『本当に、気にしてないから』
「和人……」
 幸は言葉に詰まっていた。かつて和人に、「もう話しかけないで」と言って傷付けたことが、未だに胸につっかえている。和人にずっと謝りたかった。再会してもそれが果たせないままで、意地を張り続けている自分が嫌だった。偶然にも二人きりで出会った今、謝るチャンスは今しかないと思ったのだが、その先の言葉が見つからない。
 そんな幸に、和人が手を動かす。
『……僕が君でも、きっと同じことをしたと思う……結局僕たちは、住む世界が違うんだよ。それなのに、僕が出しゃばって君にばかり頼っていたこと、君が怒らないはずがない。僕が怒る権利はないんだよ……』
 ゆっくりと手話でそう語る和人に、幸は首を振った。
「違う!」
 幸の言葉に、和人は驚いたように幸を見つめている。
「違う……そんなんだったら、私は謝ってない。私がしたことは、いけないことなの! 和人、そんな言い方しないで……住む世界が違うなんて有り得ない。私たちは同じ人間なんだもの。和人は怒っていいんだよ。障害のある当人がそんなことを言ったら、差別なんて永久になくならないわ!」
 自分のしたことを責めながら、幸は必死な瞳で和人に訴えた。和人に責めてほしかった。そうすることで、過去の過ちを悔い改められる気がした。そしてたとえ勝手でも、和人自身には臆病になってほしくなかった。
 そんな幸を見つめながら、和人は静かに微笑んでいるだけだった。
『さっちゃん……』
 やがて、和人がそう言った。