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性壁

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性壁



 白球がフラフラっと宙に舞う。スタンドからは悲鳴が聞こえた。だが、川岡由美はただじっと黙ってその白球を見つめていた。
 ゆっくりと地面に落ちていくボール。その落下地点には遊撃手がおり、構えた彼のグローブにボールは収まった。
「……終わったか」
 持っていたメガホンが落ちる。身体から力が抜け、上手く握れなかったのだ。だが、もうどうでもいい。このメガホンを使って彼女が応援することはもうない。
 不思議と涙が流れなかった。悔しいという気持ちはない。相手は優勝候補のシード校だ。コールド負けもありえる相手と九回まで野球ができただけでも十分だ。高校最後の最後の試合で九回まで応援することができただけでも、十分だ。
「ありがとうございました!」
 いつの間にか両行の整列と勝利校の校歌演奏が終わり、ナインがスタンドに向かって頭を下げていた。泣いてクシャクシャになっている彼らの顔を見て。由美は思わず吹き出した。面白かったわけではない。その顔を見た瞬間、三年間の思い出がよみがえったのだ。それらはどれも楽しいものであった。
「……終わったか」
 由美はもう一度呟いた。頬を一筋の雫が濡らす。それはすぐに止めどなく溢れ、彼女の視界は一瞬にしてぼやけた。
「由美、行こう」
「……うん」
 自分と同じようにスタンドで応援していた選手に声をかけられ、由美は目元を拭って周りを見渡した。後輩たちがゆっくりと、しかし着々とスタンドを引き上げるための片付けを進めている。彼女らの気持ちとは関係なく、この後にはまだ他校による試合があるのだ。
 彼女はもう一度目元を拭うと、他のメンバーとともにスタンドから引き上げた。
 スタンドから裏の通路へ向かう階段を下り、敗れた仲間がいるベンチへと向かう。しかし、その途中で何度か会っている女性に声をかけられた。地元紙の記者だ。名前は忘れた。
「川岡さん、今ちょっとお話いいですか」
「……すいません、ベンチの片付けがあるので」
 ぎこちないながらも笑顔を浮かべ、彼女の横を通り過ぎる。実際にベンチの道具を運ばなければならないのだが、例え暇でも取材は拒否しただろう。
「また取材か?」ベンチの近くに来たとき、レギュラーだった選手が言った。「タイミングってのを考えろよな。俺が殴ってきてやる」
「いいよ。もう片付けも終わったみたいだし、あまり時間はとられないだろうから、取材受けてくる。監督には言っといて」
 まただ。由美が取材を受けることを、同学年のチームメートは彼女以上に嫌う。それは嫉妬というわけではなく、聞くと取材の内容が気に食わないらしい。だからといって、今彼に記者を殴らせるわけにはいかない。涙こそ流していなかったものの、彼の目が真っ赤であることに由美は気が付いていた。今彼女にできることは、戦い終わった彼らの負担を少しでも減らすことだ。
「川岡さん、記者の方がおられますよ」
「ありがとう。すぐ行くよ」
 同学年のメンバーとは違い、後輩たちはこのように取材に対して協力的だ。反対しているメンバーも、彼らを注意することはない。今も、先ほどまで拳を握っていた部員が仕方なさそうな顔をしていた。
 ベンチからまっすぐ続く通路を曲がると、そこにさっきの記者とカメラマンがいた。彼らは由美が荷物を持っていないことに気が付いたのか、再び取材の許可を求めてきた。今度は彼女も小さく頷いた。
 通行する人たちの邪魔にならないよう、由美と記者たちは場所を少し変えた。
「ごめんなさい。少しだけ話を聞いてもいいですか」
「はい」
 記者の言葉に、由美は頑張って作り出した笑顔で頷く。ここで拒否したら帰してもらえるのかと、逆に尋ねたかった。
「残念でしたね、今日の試合」
「……そうですね」
「スタンドから必死に声を送られていたと思うのですが、どんな気持ちで応援していましたか」
「それはまあ、勝ってほしいな……と」
「試合に出たいな、とは思いませんでしたか」
「私が出られないのは規則ですから、それは仕方ないと思っています」
 これと同じ言葉を、大会前の取材でも答えたはずだった。
 由美と高校野球の間には、見えない、しかしとても大きな壁がある。乗り越えることもぶち壊すことも困難なそれは、性の壁だった。今回取材を受けている記事のタイトルが「性壁」なのは、やはりこういうことを意識しているのだろう。記者曰く、彼女も高校時代野球をしたかったが規則によって叶わなかったらしい。彼女は由美に対して仲間のような意識でいるのだろうが、由美とこの記者とでは決定的に違っていた。
 マネージャーとは違い、女子選手というのは女子野球が普及し始めている今では珍しい。だからか、由美は頻繁に地元のテレビ局や新聞社から取材を受けていた。それらは全て、彼女にとって苦痛だった。
 女として扱われる。これ以上の苦しみはない。わざわざ女子野球部が無い高校を選び、男子と同じ扱いを受けるために野球部に選手として入部した。最初は戸惑っていたチームメートとも、次第に打ち解けていった。多くの選手が他の男子生徒と接するときと同じように、由美に対しても接してくれた。規則で公式戦に出られないのは確かに残念だが、そんなことが気にならないほどこの三年間は充実していた。規則に関してはもとより覚悟の上であるし、何より男子の試合に女子が出る方がおかしい。多くのスポーツ、例えばバスケットやバレーや陸上などは、男女別々で行われる。野球も当然そうあるべきだとも思う。これは男女差別ではない。そのために、女子野球というものが普及し始めているのだ。
 それでも、由美は男子と一緒に野球することを選んだ。理由はただ一つ。彼女は男だからだ。
 彼女は、生物学上の性――セックスは女だが、社会的・文化的の性――では男、つまり性同一性障害であった。
「これからも野球は続けていこうと思っておられますか?」
「え、あ……いや……」
 いくつか目の質問で、由美は言葉を詰まらせた。高校野球が終わったらどうするか、全く考えていなかったのだ。考えたくなかったのかもしれない。
「女子野球をしますか? 草野球に参加しますか? それとも野球からは離れますか?」
「えっと……。今は終わったばかりで、まだ何も考えられないです」
 由美はそう答えるのが精一杯だった。不自然な回答ではなかっただろう。しかし、彼女は内心でかなり動揺していた。
 女性記者が出した選択肢に、由美が男と野球をするというものはなかった。それもそうだろう。記者にとって彼女は普通の女子高生であり、高校野球よりもさらにレベルの上がる大学・社会人野球がまともにできるとは普通思わない。だが、由美にとってはそれ以上に女子野球をするという選択肢がありえなかった。女子野球をしてしまうと、自分の大切な何かを失ってしまう気がする。男として生きながら、女として生活し、そして男のように扱われることを望みながら、女としての限界にも気が付いている。
失ってしまう「何か」とは何なのだと他人に尋ねられても、おそらく上手く答えられないだろう。自我? 自尊心? それとも自分自身――川岡由美という存在を見失ってしまうのだろうか。そもそも、「川岡由美」とは何なのだろうか。
作品名:性壁 作家名:スチール