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そこにあいつはいた。

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其の二十八.繋がりたかったんだ。


 黒。
 漆黒の闇に塗り込められた、無の空間。
 そこには何もない。
 唯一、自分の体を支える地平の存在だけが、辛うじて四肢に感じられるのみだ。
 顔を上げたところで何が見えるわけでもないその暗黒空間で、俺はアッラーに礼拝するイスラム教徒さながらに、頭を抱えて平伏したまま、為す術もなくじっとしていた。
 どれほどの時間が経ったのだろう。
 頭のすぐ側、ほんの一メートルも離れていないところに誰かの気配を感じた気がして、俺は頭を抱えていた腕を外すと、そろそろと伏せていた顔を上げた。
 ゆっくりと視界に映り込む、五つずつ行儀良く並んだ肌色の空豆。
「……神無」
 その姿を全て視界に捉えたかったので、俺は上半身を起こして居住まいを正した。
 どこからか光が当たっているのか、それとも神無自身が発光しているのか、暗黒の空間に神無のワンピースが、輝かんばかりに白く浮かび上がって見えた。その輝きを反射して、神無の黒髪も暗闇に溶けることなくツヤツヤと光り輝いて見える。
「辛かったんだな、お前……」
 神無は軽く首を右に傾けて、悲しそうな目で俺を見ている。
 葉月によく似た、その瞳で。
「もっと早く気づいてやれば良かったな。ゴメンな、ほんと……鈍いオヤジで」
 言ってる側から頬がビクビク痙攣して、もう全く意志とは関わりなく、勝手に涙が溢れてきやがる。
 でも、そんなことはどうでもいい。
「それもこれも、俺の頭の中に、お前の存在が無かったからなんだよな。だから葉月にそっくりの姿見せられても、白いワンピース着せてやっても、お前のこと離れられないくらい可愛いって思っても、その理由になんか全然思い至らなかった」
 時々声がひっくり返りそうになりながらも、やっとのことでそこまで言って、俺は神無の足下に平伏した。
「ゴメンな、本当にゴメンな。寂しい思いさせて、ほんとに済まなかった」

 どうでもいいんだ。
 家が燃えていようが、死にかけてようが。
 こいつに味わわせた辛さに比べたら、そんなことどうだっていい。
 生きたくても生きられなかった、そして思い出してももらえなかった、こいつの辛さに比べたら。

「悲しかったな、苦しかったな、本当に辛かったな……。でも、もう大丈夫だから。俺が、側にいてやるから」

 俺がこいつにしてやれることは、ただ一つ。
 望み通り、死んでやること。
 死んで、一緒にいてやること。
 こいつも、それを望んでいるのだから。
 
 暗黒の地平に擦りつけている頭、その両脇に投げ出された、俺の手のひら。冷たくて、やけにつるりとした地平に張り付いていたその手のひらを、唐突にヒンヤリした、それでいて柔らかな感触が包み込んだ。
 はっと目を開いて勢いよく顔を上げ、その感触の理由を確かめる。
 神無が、目の前に正座していた。
 白いワンピースの裾を、まるで大輪の白いバラのように四方にふんわりと広げ、正座したままその紅葉のような手で、俺の無骨な右手を幾分遠慮がちに包み込んでいる。
 俺と目が合うと、神無はほんの少しだけ薔薇色の頬を引き上げ、小さく笑った。
 その笑顔の理由を掴みかねて、何を言うべきかも分からないまま、俺が口を開きかけた時。
 突然、視界の端から端まで一直線に目映い光が走ったかと思うと、周囲を取り巻いていた暗黒の壁がハンマーで叩き割られたガラスさながらに、粉々に砕け散ったのだ。
 剥がれ落ちる壁の向こう側から溢れんばかりの白い光が迸り、一瞬で視界を覆い尽くし、そのあまりのまぶしさに、俺は思わず顔を背けて目を瞑った。

☆☆☆
 
『ほら、これ!』
 突然、聞き覚えのあるオヤジボイスが鼓膜を貫き、驚いて顔を上げた俺の視界に、やけに笑顔満開でにこにこしながら白いワンピースを差し出す俺自身の姿が映り込み、ギョッとして思わず一メートルほど膝行りながら後退ってしまった。
『あーあ、しょうがねえなあ』
 俺はそんな俺の反応にお構いなく、白いワンピースを頭から被せ、背中のボタンを留めてアンダーパンツを履かせやがった。
 いや、違う。
 俺に履かせたんじゃない。神無に履かせたんだ。
 現に、今俺が着ているのは、寝間着代わりのスエット上下。
 だが、目の前にいる俺は、そんな俺を見て満足そうに頷いている。
『見違えたなあ、おい。お姫様みたいだぞ』

 これは……神無の、記憶。
 俺の前に現れてからの、神無の、記憶だ。

 扉の影から見える、薄暗い台所の椅子に座り、ひしひしと何か食っているらしき男の背中。
 突然、その男……俺が、くるりと振り向いてこちらを見た。
『……食うか?』 
 遠慮がちなその問いに、視界がゆっくり上下に揺れる。
 おずおずと目の前に差し出されたカボチャの煮付けにぱくりとかぶりつき、黙々と咀嚼している気配。
『……うまいか?』
 心なしか不安げに問う俺の顔が、視界が大きく上下に揺れた途端、嬉しそうにふっと緩んだ。

 なつめ球の黄色い光に照らされて、洗濯物の皺を伸ばす俺の姿は濃い陰影に縁取られている。
 低い位置からそれを見上げていると、見下ろすように視線を合わせた俺が、からかい半分に問うてくる。
『何? 手伝ってくれんの?』
 洗濯物を一枚手に取り、驚いたようにそれを見つめる俺の姿を視界の上端に捉えつつ、遙か上空にあるピンチハンガー目がけて勢いよくジャンプするも、指先は掠りもしない。数回激しく視界が上下に揺れた後、諦めたように停止した視界がじわじわ滲み始めると、視界の上端にいた俺が慌てふためいた様子で頷いた。
『ああああ、分かったって。抱っこしてやるから、泣くな』
 無精ヒゲだらけの顔が至近距離に近づいたかと思うと、突然足が床から離れ、視野がグンと広がり、気がつくと、目の前にはピンチがブラブラと揺れている。
 小さな指を震わせながらピンチをつまみ、手にしているブリーフをやっとの事で挟み終えると、頭の上辺りから『やったな!』という何とも嬉しそうな声が響いてきた。
 見上げた視界の中央に、両目を糸のようにして細め、口元をだらしないくらいほころばせ、俺自身見たこともないような笑顔を浮かべた、俺の顔が映った。

 薄汚れたガラスの向こうにぼんやり見える、草ぼうぼうの小さな庭。緩い風が吹き抜ける度、背丈ほどもある雑草がゆったりとその長い茎をしならせ、細長い葉がいっせいにせわしなく揺れる。微かに耳を擽る、サワサワという心地よい音。
 突然、ガタガタと大きな音をたてて窓が揺れた。振り返ると、ネジ鍵を外した俺が窓を開けようとしているところだった。
 バラバラに分解しそうなほど大げさな音をたてながら窓が開け放たれるや、爽やかな秋の空気が頬を掠めて流れ込む。
『気持ちいいか?』
 頭上から響く声に応えるように首を巡らせ、それからもう一度日の光が零れる庭先に目を向け、それからもう一度顔を上げ、じっと斜め上にある俺の顔を見る。
 俺は幾分戸惑ったような表情で、それでも期待通りの答えを返してきた。
『……出たいのか?』
 答えの代わりに狭苦しい庭にもう一度目を向けた、その時。