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My Goddess

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 講義が終わって夕方家に帰ると、何故か俺の使っている部屋の、俺の使っているベッドで彼女が昼寝をしていた。
 勿論決して前日に疚しいことがあったわけじゃなくて、彼女が俺の留守中に勝手に入り込んで、勝手に寝ているだけだ。それどころか俺は帰ってきた日以降キスすらしていない。多少のボディ・タッチがあろうと、手を握ってすらいない。これを健全と言わずなんと言うだろう?
 彼女の寝顔を見た途端、忘れていた頭痛がよみがえった。ずきん、ずきん、と脈打つように左側のこめかみの奥が痛む。頭痛と共に兄貴のあきれたような声を思い出して、俺は一つため息をついた。
 兄貴は分かりやすいようで、実際はよく分からない人物だった。真面目なのにアバウトで、鈍感なのに聡くて、基本的には寛大なのに、時々妙に神経質になる。俺の行動は、そんな兄貴の目には適わなかったらしい。
 実家を出て彼女の家へ再び転がり込んだ直後、兄貴にだけは電話で報告をした。そして俺の出奔に両手をあげて喜んだ後、彼女の家に世話になること――実際の生活では俺が世話をしているのだけれど――を告げると、急に声は少し、不機嫌になった。
「その女の世話になるのか?」
「その為に近い大学を選んで、家を出たんだ」
「何でそこまで?」
 もっともすぎる問いに、俺は一瞬戸惑って口を噤んだ。同じ問を自問する。今まで、同じ問を何度も考えた。俺の中に、その問いに対する答えは明確にあるけれど、いつもうまく言葉にはならない。
「側に、いたいから」
 かろうじて言葉になった答えを聞いて、受話器の向こうで兄貴はしばらく黙った。
「好きなのか?」
 即答は、出来なかった。兄貴の言う「好き」と俺の彼女への感情が同じである保証はなかった。大学に合格してからの二カ月間、それも何度も考えた。一種の刷り込みのようなものではないかと、思うこともあった。
 それでも理性とは別に、感情は何度でも彼女を選ぶ。それが正解ではないにしろ、俺なりの答えだと、思った。
 正直にそう兄貴に告げると、電話の向こうではふと、笑うような気配があった。
「何だよ」
 拗ねているような響きを含んで声が伝播する。それを感じ取って、兄貴が今度ははっきり笑った。
「お前、馬鹿だなあ。人生に正解なんてあるかよ」
 笑いをおさめて、続ける。
「あるなら最善だな。それも、一つじゃないし、選択の時点じゃわからない。ないのと同じだ」
「兄貴は、最善を選べた?」
 問い返すと、考え込む気配がした。数秒続いて、すぐに吐息とともに吐き出される。
「そうでもないな。もうちょっと平和共存に近い道もあったかもしれない」
 目的語はなかったが、俺にはわかった。例えば親父や母さん、真鍋の家や、犠牲にした高校生活や友人や、それに、俺のことを考えているのだろうと思う。俺のことに関しては、考え過ぎだと言いたかったが、兄貴の出奔のせいで俺への当たりが強くなったことは確かだった。
 二年間の間で何が変わったのか、も時々考える。
 一番初めに、咄嗟に浮かんだのは、コーヒーを煎れる頻度だった。
 以前に比べて、格段に減った機会はそのまま、俺と彼女の距離と比例しているような気がした。例えくだらないことであっても、話す機会が減っているような気が、するのだ。
 もちろんそれは俺の生活環境の変化のせいでもあるし、彼女が以前より多くの仕事を引き受けるようになったからでもあるだろうけれど。それに一抹の不安感や寂しさを感じるのは、何故だろう。



 彼女と修との食事は何事もなく無事に終わって、一時二十分には俺達は校門へ送り届けられた。赤いスポーツカーの助手席のウィンドウを下げて、彼女が顔を覗かせる。
「よかったら、また、ゆっくり食事でもしましょうね」
 修に向けて、彼女が例の極上の笑顔と共に言うと、修も奴らしい如才のない笑顔を見せて応じた。
「ええ、是非。ほなら、今度は二人きりで」
 それにくすり、と笑っただけで返して返事はせず、伊織は俺に向かって片手を振った。
「じゃあ、英二も、しっかりやりなさいね」
「そっちこそ」
 俺の返事と、表情を確認するようにしてからウィンドウが上がる。サングラスを彼女がかけるのと同時、ぶるんと、一つ唸るように音を立てて、車が走り去った。それをぼんやりと見送って、修が呟くように言う。
「なあ、伊織(いおり)さんいくつやゆうたっけ?」
「もうすぐ二六かな」
「ふうん、ストレートかな。優秀やね」
 車の去った方へ目を眇めて、手をかざして日差しを遮る。
「それに別嬪さんやし。もてるんやないの?」
「知らない」
「今はいいとしても、今後まずいやろなあ」
 同じように彼女の去った方を目を細めて見やってから、俺は横に立つ修を見上げた。
「今日が初裁判って奴だぜ? そんな余裕ないだろ」
「そやね」
 俺の方を見返して、少し考えるような様子を見せると、唇を歪めるようにして笑う。彼女に見せた笑みとは完全に種類の違う笑みだった。
「ほな、見に行ってみよか?」
 何を言われたのかわからず黙ると、返事を待たずに奴は大股で歩きだした。反射的に後を追う。修は購買に迷わずに入った。地図のコーナーで足を止め、この近辺の地図を開く。十数秒でそれをスキャンして、すぐに閉じた。
「行こか」
 すれ違いざまにぽん、と俺の肩をたたく。まさか、という思いが頭をよぎった。伊織は今日、彼女自身が名目上は所属している弁護士事務所の受け持った裁判に、半ば人数合わせのために駆り出されていた。叔父のたっての頼みで、断れなかったという。スーツを着ていたのもそのせいだった。
 ブランドものらしい細身のスーツを隙なく着こなし、化粧もいつもよりは多少濃く、おまけに普段は決してしないティファニーのアクセサリィとPleasuresの上等な香り。まるで、それは別人のようで。そんな彼女の姿に少なからず、俺は焦燥のような感情は覚えたのだけれど。



 体のだるさと状況の不可解さに声もなく立っていると、しばらくして彼女が目を覚ました。横になったまま目を開け、俺の方を見ると微笑む。
「おかえり」
「ただいま」
 予想外に、普通の挨拶だった。このシチュエーションで出てくるには普通すぎる。しかしこんな普通の挨拶すら、最近は頻度が落ちている気がした。
 その場に鞄をおろして、俺はベッドに背を預けて座り込んだ。頭を縁に乗せて、彼女の方に向ける。彼女の方は、と言うと、腕をついて上半身を軽く浮かせている。そこから視線を逸らし、白い天井を見上げた。
「伊織サン、ここは俺の部屋で俺のベッドだと思うんですが」
「そうね。でも私の家よ?」
 微笑んだまま彼女は言った。感情の判断はうまくつかない。多分、この状況を楽しんでいるのだろうとは、思う。しかしどう反応を返せばよいのか分からずに、俺は途方にくれた。黙って目を閉じる。その額に彼女の手が触れた。
「頭痛は治った?」
「今さっき、思い出したところ」
 息を吐き出しながら答える。あら、とか何とか、ふざけたように彼女が呟いた。
「じゃあちょっと話したかったけど、やめた方がいいわね」
 暖かい手の平の感覚が気持ちよくて目を閉じたまま、言われた言葉を反芻する。
 話したい、と、彼女は言ったのだ。
「何を?」
作品名:My Goddess 作家名:名村圭