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楽園の涯

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 各務伊織の家は、都内の一等地にあった。家と言っても一戸建てではなく、その形状はマンションに近い。その一階が、看板等は一切でていないものの形だけ事務所になっており、二階が伊織自身の私室。三階以降、最上階である十階以外を他人に貸している。結局半月ほどして、俺は話し合いが済むまで彼女の私室の中にあるゲストルームに滞在することになった。
 しかし住む場所が変わっても、俺自身に変化はない以上、生活に変わりはない。明確な違いはアルバイトに出かけなくなったことと、同居人が出来たことくらいだ。毎日、朝起きて身支度を済ませ、朝食を作って食べ、高校へ行き、帰ってきてから彼女の仕事の手伝いをして一日が終わる。家の中で多少気を使うようになって、服装にも気をつけるようになったことと、伊織を意識しすぎないように気をつけること、食事を二人分作るようになったこと、食費を気にせず食事を作れることくらいしか、結局変化はない。
 親父との話し合いがどこまでどう進んだのかも解らないまま、それまでとさほど変わらぬ生活が一ヶ月ほど続いた。それからぼちぼちと伊織が親父と会い始め、進まない話がそれでもじりじりと進む間に、もう一ヶ月が過ぎた。同居を初めて、もう三ヶ月目になる。
 伊織の家に居候し始めて一週間以内に知ったのは、彼女が一人暮らしをしていること。まだ二十四歳で、一流大学卒の駆け出しの弁護士であること。家事が苦手なこと。恋人がいなそうなこと。
 それから後に気付いたのは、彼女がほとんど仕事をしていないことと、異常なほどコーヒーに拘ることだ。
 伊織は一日の起きている時間の内、半分近くを読書かぼんやりするかして過ごし、俺が帰ってくる夕方から数時間、書類に向かっているだけだった。電話もほとんどならず、俺以上に変化のない生活を送っているようだった。書類も、単純なものが多い。一番酷かったのは名前を書いて判を押すだけ、というやつで、さすがにこの時ばかりは意を決して俺が訊ねると、
「弁護士が名前だけでも必要な場面があるのよ」
 とあっさり答えられた。伊織自身、体裁を整えるためだけに弁護士事務所に所属しているが、それは彼女の叔父が営む事務所で、そこから簡単な仕事を引き受けて生計を立てているらしい。しかし勿論、それだけで生計が成り立つようには見えなかったが。
 そして、彼女はコーヒーを無目的には飲まなかった。目的はいつも二つの内どちらかだけ。カフェインを摂取して目を覚ますためと、そして何かを考えるために糖分を補給するためだけだ。だから、前者の目的では濃いブラックを、後者の目的では非常に甘い――少なくともマグカップ一杯にショ糖が十グラム近く入っている――カフェオレを飲む。つまり、その二種類しか飲まないのだ。
 幼い頃誰かにそう魔法をかけられたのではないか、と疑うほどに彼女はそれを徹底していた。
 例え知人や、仕事相手の家で決して安物ではないコーヒーが出てこようと、一切飲もうとしなかった。きっと誰もが彼女をコーヒー嫌いと認識しているだろう。自分以外に事実を知っている人間が何人いるのだろうかと、時々考えた。そして、いつもこう答を出すのだ。
 ――自分以外に、心当たりはない、と。



 俺が高校から帰る時刻には大抵、伊織はソファで横になって寝ているか、どこかで本を読んでいる。帰ってきてから彼女はようやく机に向かい、仕事を始めるのだ。アルバイト代わりに、俺は食事を作るだけでなく、伊織の仕事を手伝っていた。
 彼女の叔父から送られてくる封書の封を開け、中身を確かめて入っている書類を分類する。その内容、性質、期限によって分けてから彼女の机にある書類ケースの中に入れ直す。そして彼女が仕事をしている間、ニーズに合わせてコーヒーや紅茶を彼女のために煎れる。――それが、主な仕事だった。
 しかし元々彼女一人で出来る量だった書類がそう多いはずもなく、大抵は事務所代わりの部屋の中でくつろいでいることが多い。クラスメイトから借りてきたマンガを読んだり、大量にある伊織の蔵書の中から何かを借りて読んだり、勉強を横でしていたりする内に夕飯の時間になり、夕飯の後は彼女が殆ど働かないため、俺自身もろくに働かないまま一日が終わる事が多かった。
 その日は、俺が郵便受けを覗くと、珍しく分厚い封書で書類が送られてきていた。
 丁寧にそれを取り出すと、学生鞄を片手に、封筒を片手に持って玄関から入り、事務所に書類を置いてから与えられている自室に入る。手早く着替えを済ませて事務所に戻っても、伊織の姿はそこには見えなかった。事務所の奥にある応接間にも彼女の姿はない。
 訝りながら俺はその部屋の隅にある螺旋階段を上って、住居スペースに入った。そこはキッチンとバスルームに加え、十五畳のリビングダイニング、八畳のゲストルーム、十二畳の寝室で、ほぼフロア全体を占めている。
 そのリビングで、壁に隣接したソファの上に彼女は寝ていた。
 音を立てないように近づいて上からそっと覗き込むと、伊織は静かな寝息を立てて寝入っている。一つ溜息をついてから、俺は小さく名前を呼んだ。
「伊織」
 反応はない。煩そうに少し顔をしかめて、彼女は狭いソファの上で寝返りを打った。
「伊織」
 今度はもう少し大きな声で呼ぶと、ようやくうっすらと目が開き、目があった。
「おはよう」
 寝惚け眼のまま呟くように彼女は言って、上半身を起こした。片手で目を二、三度擦り、左右に頭を振ってから、ようやくソファに座り直す。
「今何時?」
「四時。いつから寝てたの?」
「二時過ぎかな。本読んでたら眠くなって……」
 まだぼんやりとしている彼女を放ってキッチンへ入り、俺は黙ってコーヒーを入れた。コーヒーメーカーに三杯分の水をセットし、スイッチを入れる。
 ちょうどコーヒーが出来上がる頃、彼女がキッチンに顔を出した。その入口に立って、顔だけ覗かせる。
「ブラックでお願い」
「わかってる」
 俺の返事を聞いて微笑むと、すぐに彼女は姿を消した。そしてすぐにまた戻ってくる。今度は顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。マグカップを食器棚から取り出そうとしていた俺は、思わず手を止めて彼女を見る。しばらく間があった。
「どうか、した?」
 恐る恐るかけた言葉に、にっこりと笑ったまま、伊織は答えた。
「そういえば、いつから私を呼び捨てに出来る立場になったの、英二?」
 俺が思わず、謝ったことは言うまでもない。

作品名:楽園の涯 作家名:名村圭