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文殊(もんじゅ)
文殊(もんじゅ)
novelistID. 635
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体内に潜む鶏の卵

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夜、飛び起きたい程の痛みに襲われた。
しかし、飛び起きることができないままベッドの上でかすかに動く。
きた。
「うぁ……」
それだけ思って、動こうと頭で考えるも、痛さにうめく。
一人暮らしの部屋のパイプベッドが、少しだけ軋んだ音がする。
それ以降、周囲の音が一切どうでもよくなった。
円香にとって最大の敵。
月に一度の奴の来襲である。
生理痛だ。
それは中学校三年の時から急激に円香を襲い、苦しめてきた敵だった。
普段比較的白めの肌に、赤みがある顔が青白くなる。
手で触ってもなんともない温度のお湯が、足をつけると熱湯のようである。
胃腸の動きが活発になるらしく、嘔吐だってする。腹だって下す。
ベッドとトイレを行き来する。
そうして落ち着いたころに、対処を打つ。
男にはそうそう味わえん痛みだ、と思いながら。
円香は何度も、思う。
もし次に人間になるなら、お願いだから男にしてくれ。
先手を打って薬で抑え込めば、痛みはするが耐えればなんとかなりそうだった。
しかし、敵は夜中に来襲することだってある。

仕方ない。仕方ないことなんだ。そう言い聞かせでもしなければ納得いかない激痛に、円香は負けじと立ち上がる。
そして、トイレに駆け込んだ。
後でする処理の面倒さに比べれば、今の痛さは耐えればすむこと。駆け込み、壁に手をつく。
胃には既に何も入っていないのか、胃液だけが吐き出された。
『ちくしょう……』
呟きたい言葉を心の中で何度も繰り返す。
痛みで、話すことなんかに頭を回している場合ではなかった。
後手になっても、対処を打てば幾分かマシになるだろう。
そう思って、よろよろと薬を捜しにトイレを出る。
飲むのにも多大な労力を使いながら、もう一度トイレに入り、座り込む。
驚くことに、出ているはずの血が出ておらず、円香は思わず「胃腸炎……?」とだけ呟いた。
あせる、しかし何ともできない。激しい痛みに、わずか残る労力はベッドに戻る、という以外のコマンドがなく。
救急車を呼びたい、と浮かんだ考えは、即効で消し去った。
恥ずかしいじゃないか。
呼びたいくらい痛いが、医者が男ならわかってくれるはずもない痛みだ。
それに、救急車だってわざわざ来て、生理痛が原因だってわかったら。
あぁ、もう。
円香は考えることを放棄して、立ち上がる。薬という対処はした、もう充分だ。
寝よう。
それだけ思って、ふらふらとベッドに近づく。
すぐに収まる痛みなら苦労しない。
円香の体内では、内臓と言う内臓が錆びた機械を無理に動かすかの如く痛んでいる。
子供を産めば少しはましになる、と母親の言葉を思い返す。
『うん、それはいつになるかわからない』
円香は大学生だ。大学生でいるうちはないだろう。
最速で結婚して子供が生まれるとしたら、それまでも三年間。三十六回は痛みを味わうのだ。
気が遠くなりそうな回数に、円香はまた考えることをやめた。
大学一年生の秋。円香は自分が一人暮らししていることを、改めて恨んだ。



「男になりたい……」
そう呟いた円香を、目の前でアイスコーヒーを啜っていた恋人が見つめる。
二年生の春から付き合っている相手である。
それが呆然というか、唖然というか。
とにかく、混乱した表情ではある。
雪のちらつく外とは打って変わって暖かく、甘さや苦さや色々混じった香りのする店内。
以前暑がりのくせにホットコーヒーを頼んで顔を赤くしていた教訓か、その顔はうっすらとしか赤みが差していなかった。
というか、呟きの後に青くなったような印象さえ受ける。
「え?」
それだけ聞き返されて、もう一度言うのではなく、理由を語り始める。
「一年の秋ごろ、まぁ今もだけど。生理痛が酷くて酷くて……」
「……あー」
気の抜けた返事は、別に円香の痛みはどうでもいい、とかではないと思う。
ようするに、男になってしまった円香と自分はどうしていけばいいのか、まで考えが飛躍したのだ。
心配性だ。
結婚の約束なんてしてもいないのに、男になった円香のことを本気で考えようとするくらいに。
目の前の恋人はそういう人間だと、円香は考えた。

「俺さ、子宮って凄い器官だと思う。男にないから、見当違いな発言かもしれないけれど」

だからこそ、この発言に目を見開いて、顔を凝視した。
「凄い……って」
それは、子供を産むという能力が基本的には備わっていない男性特有の考えなのか。
女性の中でも、痛みの少ない人はそう思うのだろうか。しかし、円香自信にも思うところはある。
そこから誕生する命がある、ということは凄いことなのだ。考えを巡らせながら、先を促す。
円香は、自分と違った意見を聞くのが好きだ。吸収したいのだ、今の時期だからこそ。
与えられた期間で、何をどうするかが重要な今。
目の前の人物から出された考え付かない意見と言う餌に、円香は飛びついた。
「確かに、男だったら一カ月に一度胃腸炎の痛みなんか、味合わないだろうと思う」
「まぁ、聞かないかな。胃が悪くて痛む、くらいならあるかも知れないけれど」
聞かないだけで、あり得ない、とは言わない。
知らないことは考え付かないほど、存在するのだから。
「それを知ってて、更に痛いことするんだからな。出産っていう」
そうだ。円香だけでなく、他の人も聞いたことくらいあるだろうが。
『鼻から西瓜が出てくるような痛み』
考えられない。出口の狭さと出てくるものを例えて言っているのかもしれないが。
想像したくないような、痛さなのだろう。円香の母は、三人の子供を世に生み出した。
長女である円香はよく母の話を聞くことがあるのだが、その際に信じられない話も聞く。
『産むときにね、切るのよ』
切らないで裂けた方が痛いし、陣痛でそれどころじゃないからわからないけれど、と。
それを聞いて、思わず円香の口から出た一言が。
「頭大きくて、ごめん。って言ったの」
「……弟君よりは、大きいよな」
気を使ったのかわざわざ誰が見ても細身で頭が小さいと言うだろう弟を引き合いに出すあたり、やはり。
そこまで思いながら特に肯定も否定もせずに円香は続ける。
「まぁ、別のとこを切る出産だってあるけれどね」
「帝王切開?」
そう、と答えながら円香は自分の腹部に手をやって三回くらいさすった。恋人の目が丸くなる。
いないから、と苦笑する円香に対して申し訳なさそうに俯く。
紛らわしいことをするな、とは怒らないのかと思いながら、気付く。
「そもそもね、そういうことしてないでしょ」
当然の如く口にした円香とは対照的に、一気に赤くなる頬。
あぁ、せっかくアイスコーヒーにしたのにね。口には出さないが、笑みは隠さない。
恨めしげに見てくる瞳を物ともせず、ティーポットを掴んで傾けコップに注ぐ。

「子宮って」
すっかり気にしなくなったのか口を開いた相手を見やりながら、コップに口をつける。
というか、本人がまた赤くなるだろうから言わないが。
『色々な人がいる場所で子宮について真剣に話していることは、良いのか』
いや、とすぐさま否定する。そもそも、真剣に話をすることのなにがいけないのか。
何にも知らない癖に知ったような顔をしたり、茶化したりするような奴より私的には好印象である。
「なに?」