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掌の小説

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美容室



 引っ越しが済んで、世田谷区松原の駅で母と別れた時の、流れ出しそうな孤絶感はきっと何も意味してはいなかった。俺だけがホームに残って、母親が電車の厚い壁の向こう側で笑っていた。ドアが閉まって電車は走りだし、俺はホームから出るために見えない足跡と見えない人生でいっぱいの階段を上がった。そのときの身を傾けるぐらいの孤絶感、外から俺を殴りつけるかのようだった初めて独りになった感触、それには何の意味もなかったのだ。
 俺は山形の田舎から東京に上ってきたが、東京という都市に対して何かの対策を講じようとする知恵もなく、何もかも成り行き任せで、ずるずると大学に入ってしまった。東京が山形とそんなに違うとも思わなかった。俺は山形の農村で、土の匂いや草の匂い、晴れの日の匂いや雨の日の匂い、時には堆肥の匂いであったり、汗の匂いだったりしたが、そういうものに包まれて子供時代を過ごした。生家の庭は砂利敷きだったから、俺は朝出かける時も夕方家に帰るときも、砂利の凹凸を足裏に感じながら一日に区切りをつけていたのだった。東京が山形と何が違うかというと、何も違わないんじゃないか。ただ周りがアスファルトだらけになって、人の数が増え、オーデコロンや制汗スプレーやワックスの匂いが増え、それだけじゃないか。いや、そうでもないか。一番大きな変化は、人の眼が増えたことだ。そして、おしゃれなものが増えたことも大きい。東京は眼の町だ。たくさんの人に見られ、そのたくさんの眼から自分を防御しなければいけない。そうだな、それが一番変わったことか。
 そうだ、東京は眼の町だ。東京の眼は人々の頭部にあるだけでなく、一つ一つの建物にもあるし、東京自体も大きな眼だし、何よりも人々の内側にもう一つの眼を作り出す。俺は6畳和室の安アパートの中で勉強しながらも、その内側の眼によって、自分を変えなければいけないのではないかという妙な当為にさらされていった。俺の頭部についている二つの肉眼、こいつらは鋭く冷たく、濃いめの眉毛とともに俺の生来の無機物みたいな性格を象徴しているが、こいつらが俺の服装を見たときは特に何も感じない。量販店で買ったシャツにジーパン。ぼさぼさの頭。田舎ではいくらでもありふれている。だが、この外側の肉眼が東京の人々の洗練された服装や髪形を見て、それらがそうあるべきものとして俺の内側に規範、つまり東京の眼であり俺の内側の眼であるが、それを形成したとき、俺の内側の眼は、俺自身を焼き払うような厳しさでなめまわすようになった。
 俺はおしゃれにならなければいけない。東京の人々がそうであるように。それは服装や髪形もそうだが、それ以前に俺の態度が変わらなければいけない。俺は決して周りの風潮に流されたとか、安易に適応したとか、そういう態度をとったわけじゃない。ただ、東京の巨大な眼が怖かったのだ。東京の眼が、俺の田舎くさい外見をなじるようなまなざしで見つめる、その視線が怖かったのだ。東京の眼は無数の支部を持つ。それは、東京に住む人一人一人の眼でもあるし、何よりも俺の中に巣くったもう一つの眼でもある。そいつが俺を見つめて逃がそうとしない。俺はその視線に耐えられなかった。
 俺はついに安アパートの木製の急な階段を少し大きな足音を立てながら下り、一階で家主の老婆が詩吟の練習をしているその捻りのきいた吟唱を耳に貼り付けたまま、ドアを開けてアパートの裏手にある自転車置き場に行き、「美容室」というところに行こう、と決意した。俺は今まで床屋でしか髪を切ったことがなく、美容室というものの門をくぐったことがない。美容室で、この三か月も伸ばしっぱなしで、癖の方向に好き放題曲がっている自分の髪の毛を何とかいかした造作に変えてくれないものか、俺はそれを切に願った。
 新旧の住宅が混じる住宅街を抜けて、幹線道路に出て、自動車が多数通り過ぎる轟音の中、俺は胸が非常に高鳴るのを感じた。それは希望や期待による高鳴りではなく、不吉でいやな緊張だった。幹線道路を渡るために交差点で信号を待つ。そのとき、前に並んでいる女性の、まっすぐ長く伸びた髪、調和と鋭さに満ちた上着、体の線を上手に見せるジーパン、細部にまで凝った靴、それらを見て、また俺の内側の眼の視線が鋭さを増す。俺は醜い。顔かたちが醜いのではない。その装飾が醜いのだ。ところで、顔かたちも装飾もどちらも一緒になって人間を作り出す。顔かたちが良ければいいというものではない。それを上手に演出する、修飾する、それでこそ本当に美しい人間が完成するのだ。信号が変わって、前の女性が歩き出す。その歩みの軽やかなリズムに俺は魅せられる。これが東京の女の歩き方だ! 俺は追い越しざまに彼女を何気なさを装いながら振り返り、その凡庸だが整えられた人工性に魅せられる。ああ! 美容室に行かなければ!
 俺は幹線道路から商店街へと入り込み、前々から目をつけていた美容室へと向かう。値札が大きく大げさに掲げられた八百屋や、看板の文字が古ぼけている古本屋、何をやっているのかわからないいくつかの事務所、真新しい住居、そういうものを通り過ぎながら、目当ての美容室のところにまで来た。だが、俺はそこを通り過ぎた。気づかなかったのではない。恥ずかしくて停まれなかったのだ。その、ガラス張りで、黒と白との対比が見事な店舗の中に入っていくには俺はあまりにも無様すぎた。こんな田舎者が入っていい場所ではなかった。清潔な店内では、化粧をした女や、若い男が体に布をかけながら椅子に座っていて、工芸品のように作りこまれた美容師たちが客の髪をいじっている。俺の緊張は最大限に達した。美容室に行かなければ俺はこの東京の眼に勝つことができない。だが、美容室自体がまた一個の大きな東京の眼なのだ。俺の田舎者臭さをじろじろ眺めて俺を拒絶しようとする東京の眼だ。俺はもう一度引き返すがやはり美容室の前に自転車を止めることはできなかった。
 そうして、5回ほど行ったり来たりを繰り返し、結局俺は美容室に入れないまま絶望して安アパートに戻った。俺の髪形は醜いままだ。だがどうしたら東京の眼に勝てるというのだ。俺は田舎者の眼を作り出すことができなかった。東京の眼に対抗するだけの田舎者の眼、そんなものはどうしても不可能に思えた。俺は敗北した。だがそれは葛藤という名の敗北だ。俺を美容室に駆り立て、なおも美容室からの拒絶を生み出す、そういう種類の敗北だ。俺は部屋の東の隅に置いてある姿見の前に自分を映し出す。この姿見もまた東京と共犯なのだな。

作品名:掌の小説 作家名:Beamte