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早稲田文芸会
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夜明け前(奥貫佑麻)

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プラスチックなんだし乱暴に扱えばすぐ壊れるだろう。そう思っておれはベッドの脚にチェーンの部分を何度もぶつけ、こすり合わせてみた。ベッドの脚はステンレスで、薄い板を山折りにしたような形をしている。摩擦の力でねじ切れるんじゃないかという気がしていたのだ。でも実際には手錠は傷もつかず、しかも余計にキツくしまって手首から先に血が留まり、色が赤黒く変わっていった。両手の指ぜんぶで脈が打っているのが感じられ、手のひらがだんだんと血で張り詰めていくみたいだった。おれはとりあえず手錠を壊そうとするのはやめにして、ベッドを持ち上げてみようともした。が、ベッドは下の引き出しにものを入れまくっているため重くなり、とても一人の力じゃ動かせない。――もう眠ることにした。
ケータイが載っている椅子を、足払いで倒すことはできる。そうしてケータイを拾い、誰かに助けを求めることも難しくないだろう。ただ今は午前二時で、最寄りの電車はとっくに終わっている。近所の知り合いに頼んだとしても、この部屋そのものに内側からカギがかかっているから意味がないのだ。このアパートの管理人や、あるいは警察なら大丈夫かもしれないが、大人のオモチャが原因の騒ぎなんかで迷惑をかけたくない。第一、周りにウワサが広まったらおしまいだった。自分で自分に手錠をかけて、しかも外せなくなったヤツ? ぷぷぷー、みたいに見られるのはごめんだ。
まずは朝を待とう。それから信頼できる友だちか、近場に住み始めたらしい妹のナオでも呼んで助けてもらおう。「マジ兄貴キモいんですけど。なんかこんなんの妹? って考えたくないからやめてよねホント」なんて言われるんだろうか。このごろあまり会わなかったし、お礼にうまいメシでもおごってやるか。ホッと体の力が抜けたようで、窓の外の景色を眺める余裕もでてきた。水銀灯の明かりに様々な大きさの虫たちが寄ったり離れたりを繰り返し、車やバイクの音に混じって、女の叫びによく似たネコの盛りの鳴き声が聞こえた。どうも一組のノラネコが窓のすぐそばで交尾を始めたらしい、そのくらい大きくはっきりと聞こえる盛りの鳴き声だった。首を持ち上げると、思ったとおり、アパートにある庭の芝生の上で汚い体のオスメスが向かい合っていた。
仮に左手をニャン太、右手をニャン子としておこう。二人は付き合い始めて三カ月が経とうとしていた。ニャン太の方が年下なこともあって、デートも告白もニャン子の方が先手を打っていた。今日はニャン子が初めて自分のテリトリーにニャン太を呼んだ日というわけだ。ニャン太は淡泊なフリをしておいて、ちゃっかりゴムは買っていた。そしていよいよ二人きりになったとき、ニャン子はそれとなく上目づかいで甘えた。そんなストーリーを勝手につくりながら見ていると、ニャン子がニャン太に覆いかぶさった。あれ? どうもニャン子の方がオスで、ニャン太の方がメスだったようだ。ネコの性別なんてふつう見分けがつくはずはないから、いつもなら単に間違った、で済ますだろう。でも今のおれは、さっきカギがよく分からない方法で消えてしまったことで、世の中がなんか信じられなくなっていた。つまり、おれがニャン太、ニャン子と名付けたときは、二匹の性別はその名の通りだったんじゃないか? それが交尾の瞬間に何かスゴいことが起きて入れ替わってしまったんじゃないか? そんな疑いでいっぱいになったのだ。ニャン子は一生懸命に鳴きながらニャン太の上でがむしゃらに動いていた。後ろ足がおぼつかなくてよたよたと芝生をうろつき、思いきり開けた口のキバがヨダレの糸を引いている。
くそ、ネコの性別にまで裏切られちまうのかよ。そう舌打ちしたとき、今度はものスゴくションベンがしたくなってきた。下半身がもったりと熱くなり、チンコの根元から先へと水気がたまっていく感じがする。おいふざけてんじゃねえぞ世界! たぶん一旦ホッとしたのがいけなかったのかもしれない。朝までガマンできるとかそんなレベルじゃなかった。すぐにトイレに行かないと絶対に漏れてしまうが、走っていくと体が揺れて危ないから足の爪先で早歩きするしかない段階にきている。もう一度チェーンを壊そうとベッドの脚にぶつけようとしたくても、力を入れたら先にションベンが出るだろう。やっぱり警察でもなんでも呼ぶしかない。大学生が手錠をハメたままションベンを漏らすなんて、人殺しよりもありえない。ヤエコに知られたら二度と会ってくれなくなるかもしれない。ナメんな! お前に買った手錠でこんな目に遭ってんだ、責任とれ! いや、妹のナオのことで安心したせいで今まさに漏れそうだというなら、悪いのはナオかもしれない! ケータイを手に入れるためにやっぱり足払いで椅子を倒そうとしたが、すでに膀胱はちょっとでも体を動かしてはいけないヤバさに達していた。
ふとケータイが鳴りだし、バイブ設定にしていたため椅子の上を震えながら滑りだした。着信の緑色にランプが変わり、天井を照らす。アイボリーで凸凹の付いているもので、そこに濃い緑の影ができた。その音にびっくりしたのか、二匹のネコは庭からいなくなり、新しい場所を探し始めたようだった。それまでオスメスがじゃれていた芝生の草はところどころ折れて、通り過ぎる車のライトが当たる。ケータイは三回震えても止まらなかったから、メールじゃなくて電話だろう。こんな時間に誰だ? と思って眺めていると、ケータイは振動を続けて椅子の端にまで移動してきていた。
この調子でケータイが落ちれば、おれは足払いなんてすることもなく、体をねじるだけで警察への連絡手段をゲットできる。誰かは知らないしいつもならマジ迷惑なんだけど、ありがとう。そう思っていると、ケータイは突然しんと止まり、ランプの色も充電中の赤へと戻った。ずっと繋がらないことで相手が諦めてしまったのか? ケータイはあと四秒くらいだけ震えてくれれば椅子から落ちる、というところだった。期待させやがって! 短気すぎるだろお前! 死ね! おれはその言葉を小さく声に出し、何度も舌打ちをした。体を動かすことが危ないなら、口の中でしか怒りを発散できない。
するとまたケータイが鳴りだし、今度こそ椅子から落ちた。さっきまで悪態をついていたのが後ろめたくて、おれは口を閉じて唇を噛んだ。ゆっくりと落ち着いて体を曲げて赤ん坊のような格好になり、ヒザを使ってクレーンみたいにケータイを運んだ。手錠のハメられた手首を折ってケータイに指先だけ触れる。十本の指はみんな血がたまり、針でつついただけでショック死するかもしれないと思うほど痺れ切って、感覚もとっくにマヒしていた。ようやくケータイが手に入り、今までの悪い夢が全て終わるのかと思うとニヤニヤが収まらなかった。液晶の画面には
谷崎ヤエコ
と表示されていた。どうしてヤエコが? 時計はもうすぐ三時になろうとしていた。よく考えれば、一人で手錠が外せなくなったというのもおかしいが、こんな時間に電話することだって充分おかしいのだ。何かあったんだろうか。まだ震え続けるケータイを開き、頭をひねって耳に当てた。
「よーヤエコ、どしたん?」
「オマエが能登?」