キャンバスの中の遊戯
そう、彼は穏やかな表情で、私達の秘密に乗り込んでこようとしている。
かつん、と爪先に小石がぶつかって、美幸は下を向いた。整然と整えられた歩道に乗る、一粒の石。
「ねぇ……、私、失敗したかな」
黙々と歩いていた茜が、速度を緩めた。美幸もそれに付き合って、速度を落とす。美幸は茜を安心させるように小さく笑ってみせた。
「茜が失敗してるのなら、私も失敗したかな」
「……いつ気がついた?」
「昼休み、図書館で」
「ああ……」
茜は納得したように、ひとつ頷いた。あの独特の眼差しを思い出し、心がぶるりと揺れる。
二人は、大通りに差し掛かっていた。灰色の交差点。大型のトラックが、目の前を横切っていく。二人の歩みを止めるのは赤信号。
青になるのを待ちながら、ぼんやりと二人は前を見ている。
「ねえ、バレると思う?」
茜がくるりと振り向いて言った。振り向いた拍子に髪が舞い、それが緋の光に染まっている。
「どうだろうね」
「……うん」
どこか間の抜けた音が響き、信号が青に変わる。二人は白と黒の横断歩道を渡り、そしてひとつ道に入る。
二人を平凡な住宅が取り囲む。まだらに光る、家の明かり。二人はどこまでもその間を進み、そして足を止めた。
いつものように、同じタイミングで二人はお互いを振り返る。
「じゃ、また明日ね、『美幸』」
「ばいばい、『茜』」
そうして二人は、お互いの住む、本来の名前の家へと戻って行った。
彼は当たり前の表情で何一つこのクラスの秩序を変える事無く、クラスの一員となっていた。
おそらくこの教室という、微妙な均衡が保たれている空間では、ひとり生徒が混じっただけで、クラス内の秩序は変わるだろう。
だが、秋はその秩序を何一つ変える事無く、このクラスに溶け込んでいる。
それは美幸も感じていた。彼女の日常も変化した筈なのに、不自然な程に変化していないように感じられる。
ただひとつだけ変わった事がある。時々秋に見られている事だ。
授業の合間などに、ふと秋へと視線を向けると、彼は新しいクロッキー帳を開いていた。そして、美幸の姿をデッサンしている事があるのだ。
最初にモデルを拒まなかった以上、それを止める事は出来ない。
秋は美幸と視線が合うと、一度だけ微笑むのだが、後は真摯な視線を向けて、ひたすらクロッキー帳へ、美幸の姿を描き続けるのだ。
作品名:キャンバスの中の遊戯 作家名:志水