キング
Episode.1 醜悪な男
鋭く尖った犬歯が肉を食む様は子供の頃に授業で見た野生肉食獣の食事風景によく似ていた。ぴくぴくと足を痙攣させて絶命したシマウマの腹の肉を食らうライオン。それはひどく恐ろしくて残酷だった。泣き出す女の子に、100年以上も教師を続けている教育用アンドロイドは旧式の銀色の顔――100年程前はそういうデザインのアンドロイドが流行していたのだ。人間のようなロボットと明らかに人間ではない特色を備えたロボットとで、大体五十年から七十年周期で流行が繰り返されていることはもう既に常識だ――を優しく笑ませて告げた。「大丈夫ですよ、女生徒」それは子供を安心させることに長けた音声である。三百年ほどまえに実在した、最も人の心を安心させる声の持ち主の声を収集し、ミキシングしたものが、教育用アンドロイドの声帯音声に採用されている。ただしこの教育用アンドロイドはその技術が生み出された最初期のものだから少し精度は悪い。それでも泣き叫んでた少女は少し落ち着いて銀色の肌の教師の顔を見上げた。
「大丈夫ですよ、女生徒。かつて、ライオンはああしてシマウマを殺して生きていました。けれどいまのライオンはそんなことはしません。培養されたエサを食べて動物園で保護されて生きているのですから。あのように、動物たちが乱暴で粗野なことに明け暮れていた時代は終わったのですよ」
銀色の顔を微笑ませて、教育用アンドロイドはそう説いた。その言葉に幼くとも女の子のように涙をながして怖がることが出来なかった自分は、そんな野蛮な時代に生まずにすんだことを心の底から感謝した。
「それだっていうのに」
恨み言を小さくつぶやく。
普段であれば今頃は屋敷で読書にでも勤しんでいる時間だというのに、今、彼がいるのは郊外のさびれた雑居ビルの一部屋。さながら廃墟のごとき様相だが辛うじて稼働はしているらしい。昇降機は旧式で動くたびに奇妙な音をたてるし、空調コントロールはもとより掃除さえももまともにされていないらしく埃っぽいが、彼と、その目の前で肉を食らう男以外にも誰かがこのビルの中を歩き回ってる気配は感じられる。
男はジュードが何か言ったことに気づいたのか片眉をあげて食事の手を止めた。
「食欲がないって言ったのはお前だろ」
「別に食べたいなんて一言も言ってない。大体そんな脂っこいものなんて、食べられない」
真っ当な《上流階級》の感性を持つジュードにとって、目の前の男が美味そうに口に運んでいるようなぎとぎとと脂ののった肉は、嫌悪感しか感じない物質であった。彼は現代に生きる《貧民階級》以外の人間のほとんどがそうであるように、食事といえば栄養補給サプリかフルーツ、或いはほんのたまにスープを摂るくらいである。そのほうが必要な栄養素は補給出来るし、満腹感も得られ、健康的な体型を維持することも簡単であるため、非効率的極まりなかつての人類の栄養補給手段である食材を用いた料理を口にすることは殆どない。
ただ料理というものを見たことがないわけではない。実際、ジュードの父は時折思い出したように天然食材を用いた料理を食事として摂ることがある。かつての習い性なのだという。ジュードの父は《再生》を五回繰り返し、後半の三回は《上流階級》を引き当てたのだけれど前半半分は《貧民階級》だったのだ。特に最初のうまれがひどく、日々の食料にサプリなど用いることは出来ず、配給される最低限の食料をなんとか使い回して日々を送っていたのだという。最初の生まれで身についたものは、どんなに《再生》を繰り返しても残っているものなのだという。ならばいっそ《転生》をすればいいのに、とジュードは思うのだけれど、父は頑なに《転生》だけは拒んでいた。ふるい記憶がなくなるのは悲しことだ、と言う。そんな父の考え方をジュードは全く理解出来ない。
それだけでなく、ジュードと父は、一時が万事、意見がまったく合わない。血が繋がっていないこととは関係なく、純粋に生まれ持った性質が全く違うらしい。父が時折食べている料理というものをジュードは口にしたいとは思わない。鼻腔を擽るいい香りや、美しく盛られた皿は確かに芸術的で美しいものもあったけれど、だからこそ、それを食べようなどとと思うことなんて出来るはずもない。ジュードはなによりも美を愛しているからだ。完璧に完成された美を崩すだなんてそんな無意味なことはたくないし、なにより人間の動作のなかが料理を口にしている姿ほど醜いものはないとジュードは信じていた。
ゆえに、ジュードにとってこの場は地獄でしかなかった。部屋は汚いし、醜悪な食事を醜悪な仕草で食らう男と二人きりで閉じ込められてる。何故、こんな目に合わなければいけないのか。その理不尽さに怒りすら湧いてくる。男の方など見ないように、ジュードはぷいと顔をそらした。どこに目をやろうと、この灰色の部屋は醜く、汚い。
スプリングの壊れた硬いソファは座り心地は最悪だし、床も埃で白くなってるから、ジュードと男の歩いた足跡がくっきりと残っている。埃だなんて、何百年前の遺物なのだろうか。今では完璧な空調コントロールによって空気中の塵芥はすぐさまに回収されてダストボックスに送られ、ボックスがいっぱいになる前に浄化されるか処理されるようになっている。そのシステムが導入する前に建造物など、シティにはもう残っていないはずだ。ならばここは郊外なのだろうか。
「おい、ジュード」
苛々したような声に、ジュードは眉間に皺を寄せた。なぜこの男が怒るのか、全く理解が出来ない。この場で怒って良いのはこの男ではないはずだ。そう思っているから、ジュードは男の呼びかけなど無視して部屋の観察を続けようと視線を部屋の奥に巡らせようとしたが、それを阻むように、ソファが揺れた。部屋が回転する。否、身体が反転したのだ。背中から床に落っこちたのだ、と理解するのに数秒。目の前で今自分に伸し掛っている男が、自分の座っていたソファを蹴飛ばしたためにソファが倒れて床に落ちたのだ、と状況を把握するのに更に数秒。ただし何故この男がこんなにも怒っているのかだけは、理解出来ない。
伸びかかった茶色かかった金色の髪がまず目にはいる。少し前髪が邪魔そうだ、となんとなしにジュードは思う。少しのびた前髪は、剣呑な色を帯びた男の青い瞳を僅かに覆っていた。醜悪な食べ物を醜悪な仕草で食らうくせに、この男自体は醜くはないのが、ジュードには不思議だった。粗野で粗暴なくせに、どこか優雅でもある。不思議な男だ、とジュードは思う。
「ジュード」
再び、男はジュードの名前を呼んだ。ジュードは醜いものは嫌いだ。美しいものが好きだ。男の、剣呑な青い瞳はとても美しかった。だから今度はジュードは男の呼びかけに答えた。なに、と問えば男は少しだけ瞳の色を和らげた。男はゆっくりとジュードの頬を両手で包んだ。基礎体温が高いのだろうか、熱い肌だった。
男は笑った。
「お前は、俺の財布になれ。そのために攫ってきたんだ」