ゼロ
夜
祖父が死んだ夜、私は世界の夜たちが一斉に瞬くのを知覚した。私はそのとき、一つのうつろな音階として瞬きの中に捕えられ、祖父の死んだ情念に触れた。その日、夜は間違いなく私を通過したのだ。背面から視界に向かって。その日以来、私の外側は、気泡の内側から、視界を飛び交う夜を追跡し続けている。
夜が関係でしかなく、夜が時間でしかないというのは錯覚である。夜には実体があり、しかもそれは複雑な構造体をなしている。私は、夜がいくつかの精神的な要素から組成されることを知っている。例えば昨日の夜は、等量の悲哀と諦念、そして微量の怒りによって組成されていた。悲哀と諦念とが細やかに錯綜する領界に、点々と怒りが打ち込まれていたのだ。
また、芸術の鑑賞の尺度に「美しさ」があるように、夜の鑑賞の尺度には「正しさ」がある。私はある夜を「非常に正しい」と感じる一方で、別の夜を「全然正しくない」と感じる。ある夜を「精妙な正しさを湛えている」と評するかもしれないし、別の夜を「荒削りな正しさが鑑賞者を圧する」と評するかもしれない。「正しさ」を感じているとき、私はひときわ私の外に出て、世界に描かれるのを待っている。
夜の無数の根からは「夢素」が滴り落ちてくる。この夢素が、記憶の葉に切断され、衝動の棘に貫かれ、概念の液により貼り合わされることで、人の夢が凹凸のある一枚の痣として完成する。夜が正しいほど夢素の量は増え、夢は頻繁にめくれ上がっては一層密に無音の旋律を束ねてゆく。夢は人の体に触れ、その内側を探るが、新しく人を実らせることはできない。夢はただ、夜の断面に吸い付きながらひたすらに自転するだけだ。
人が経験するのは夢の裏側である。夢の表側には、鳥の眼が彫り込まれている。この眼は何も見ることができないが、そのかわりその質量は描かれないまま夢を凝集させる。鳥の眼の慎密な鼓動がなければ、夢は湿った硬砂へと分解してしまうのだ。私は夢を見るときはいつも、夢の表側に流れる血の味を確かめている。
私の夢には常に音楽が忍び込む。表側を吹きすさぶ無音の旋律が、鳥の眼を通って、音を得て、裏側へと吹き込んでくるのだ。夢の裏地に音が作用することで、一つ一つの像が結ばれてゆく。旋律が蛇行(進行は常に蛇行である)しはじめると、例えば血の流れる河から割れた太陽へと、醜怪な鉱物から見えない槍へと、映像は滑ってゆく。
和音が裏地に作用することによって、組み合わされた像が結ばれる。血の河には暗緑の橋が架かり、その欄干を抽象化された火鼠が走ってゆく。太陽の片割れは苛立ちに密封され、紫に貫かれて光を強める。鉱物からは無数の見えない槍が生え、その直下で愛が筒状に変形する。
今夜、夜は静謐な正しさを備えている。夜は七対三の割合で悔恨と喜悦から組成されていて、無限に反復される悔恨の袋の中心部に濃縮された喜悦が配置されている。今夜、これまでの夢の連鎖が私の本質を取り囲み、私の悲劇を次々と照射している。私は私の背後へと退行し、無数の指を突き出してくぐもった叫びを射出してゆく。今夜、私はどんな夢に見舞われるのか、そしてどんな踊りを踊るのか。