Possessors
「配管を引いた業者を、どうにかして探し当てるしかないかな。前のオーナーにうまく繋がったら、それが糸口になると思うんだけど」
その悩ましい口調に、晴也くんはすぐ後ろで俯いていた。一ヶ月の間に、家の水回りが壊れかけている。旦那さんは気弱そうだし、今の上野家で暮らすストレスは中々のものだろう。わたしが相槌を打とうとしたとき、千代子さんは近くのマンションに住む岡田さんを見つけて手を振ると、カートのストッパーをかけて駆け寄っていった。晴也くんと取り残されたわたしは、お菓子のコーナーを振り返った。
「アーモンドのやつ、見てたよね?」
「はい」
晴也くんは素直にうなずいた。わたしは後ろ歩きで静かに下がると、忍者のような手つきでお菓子をひと袋手に取り、戻ってきて自分のカゴに入れた。
「わたしが買ってあげるよ。あとでこっそり渡すから」
「いいんですか」
そう言う声が少し震えていて、わたしは晴也くんの全身を見渡した。千代子さんが給湯器の件で揉めだしてから、なんとなく様子がおかしい気がする。わたしは、岡田さんと話し込んでいる千代子さんをちらりと見てから、晴也くんに向き直った。
「叩かれたり、してる?」
晴也くんはしばらく俯いた後、それがなぜ起きるのか全く理解できないように、首をかしげながら言った。
「最近は……」
答えたくないことを、本人の口から言わせてしまった。わたしはそれとなく晴也くんの頭を撫でた。後ろの方に小さなこぶができている。ちょうど、千代子さんの手から拳骨を食らったぐらいのサイズ。
「お菓子は、内緒にしててね」
「ありがとうございます」
晴也くんはわたしの手から逃れると、ぺこりと頭を下げた。
買い物を終えて家に帰ると、ちょうど仕事から帰ったばかりの浩人が、デパートにしか売っていない高級だしの素を掲げて、言った。
「ラスト一個、ゲットしたよ」
「おお、すごいね。争奪戦にならなかった?」
「そいつからも出汁が取れるぐらいに、思い切り押しのけてやった」
浩人はそう言うと、帰ってきたわたしを見て飛び跳ねている直人の頭をぽんと撫でた。わたしが屈みこんで『ただいま』と言うと、直人はマイブームのピースサインを両手で出して、『おかえり!』と言った。三歳年上の浩人は、直人が生まれるのと同時にこの家を買った。そのときの細かさといったらすごくて、わたしは一時期、柏木『総書記』浩人とミドルネームをつけて呼んでいた。でも、そうやって作られた柏木家用のマイホームはなかなかの出来で、千代子さんが困っている『あのメーカーの給湯器』も、少し値段を抑えた控えめな性能のやつが元気に動いている。
直人が色々な姿勢でダブルピースの練習をし、たまに片方のチョキを浩人のお腹に突き刺したり、わたしの背後に意味もなく逃げ隠れたりして遊んでいる。浩人とご飯を作って、まだ走り回りたい直人をどうにしかして席につかせてご飯を食べていると、どうしてもさっきの晴也くんが頭に浮かぶ。わたしが見たままのことを話すと、浩人は顔をしかめた。
「マジかよ。おれ、子供は宝って言葉、あの人から聞いたんだけどな」
それを聞いた直人が、なんとなく自分が宝であることを自覚したように、誇らしい目でスープを飲んでいるのを見て、わたしは思わず笑った。
「そうそう。宝って感じ、自分から出してこ」
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『次回着電後すぐにエスカ』と書いてあったからだろう、すぐに上司の坂井が電話を代わり、キツツキのようにエアお辞儀をしながら話し始めた。最後の電話から、ちょうど一週間。坂井がオウム返しに返答している内容からすると、給湯器側に『サービス』の文字が点いたらしい。おそらく、配管が本格的に潰れ始めて、給湯器の安全装置が働いたのだろう。でも、この品番は何でもないのに『サービス』の表示が出る不具合があって、その可能性もある。
「藤野さん、あれの相手してたら病むよ」
松平がひそひそ声で言った。私はうなずいた。確かにそうかもしれない。実際、私の母がそうだった。あれだけ優しかった母は、父が体の調子を崩してからアルバイトでコールセンター勤務を始めて、そこからどんどんメンタルが落ちていった。そして、それでも口癖のように『かけてきている相手の方が、辛いのよ』と自己暗示をかけるように繰り返していた。最終的にその暗示が足元を掬う形になって、母は自分で命を絶った。
しかしそれは、妙に明るかった朝の食卓で最後の兆候を見落とした私にも、責任がある。大学生に上がってすぐのときで、当時は部活が忙しかったから家のことを見る目が甘くなっていたが、そんなことは理由にならない。
大好きだった母が突然いなくなってから今に至るまで、ずっと頭に残っている疑問。それは、本当に相手の方が辛いのかということ。
ヒーターの電熱線がすぐに傷むと言って電話してきた男の人は『修理してくれっつってんだよ、お前と話したくてかけてんじゃねえよ』と言っていた。栓の隙間から水漏れが止まらないというクレームを言ってきた女の人は『夜通し、ずーっとポタポタ言ってんのよ。なんで私が雑巾を下に敷かなきゃいけないの。直らないのなら、あんたが正座してずっと手で受けるのが筋じゃないの』と怒っていた。本当に辛い人は、そんな言葉を生み出せない。だから私は、相手が理性を失う瞬間を待っている。相手の方が辛いという証明になるから。
そして上野さんは、あまりにも手強い相手だった。
でも、坂井の反応を見ていると、相当厄介なことを言い始めているか、解決の糸口が見えない罵詈雑言が飛んでいるかの、どちらかだ。実際、上野千代子はここ一ヶ月で、新しく導入した給湯器のせいで正気を失いかけている。
『元々ついてた給湯器が、ほんとにやる気がなくてねえ』
きっかけは、この言葉だった。それを聞いた近所の奥さんがうちの給湯器を薦めて、営業が自宅にお邪魔して契約を取り、何社かある施工業者の中で手が空いていたところに工事が発注された。何もおかしいところはない。
ただひとつ、その『近所の奥さん』がわたしだということ以外は。
旧姓を名乗っているこの職場で、コールセンターの職員とクレーム客という立場で再会できたのが、一ヶ月前のこと。理性的に言葉で解決しようとするその姿には、ずっと苛々させられた。わたしの欠点は、人間が脳みそを使って繰り出す全てが、心の底から嫌いだということ。それは柏木家の中だけで中和されていて、その分、外へ出たときの化学反応は凄まじい。だから浩人には、わたしがどこで仕事をしているか絶対に言いふらさないよう伝えている。
この仕事は、わたしの天職だ。
自分の母を壊した人間とは、今でもこうやって電話越しだけで話すことができる。なんなら操って、その人生を意趣返しのようにぼろぼろに崩すことだって。
ちなみに、『サービス』の表示を消す方法は、いくつかある。一番簡単なのは、制御基板が面している右側の真ん中あたりを平手で叩くことだ。うまくいけば、ショックで表示が消えることがある。
せっかくだから、試してみればいい。
最近は自分の子供で、練習してるみたいだし。
作品名:Possessors 作家名:オオサカタロウ



