聖域を捨てる
「主食」という隷属からの脱却
日本の食卓において、米は単なる食材を超えた「聖域」だった。八百万の神が宿るとされ、一粒も無駄にしないことが美徳とされたその白い粒は、私たちのアイデンティティと深く結びついてきた。しかし、現在私たちが直面している米価の高騰と、それに対して有効な手を打たぬまま放置されている現状は、一つの残酷な事実を突きつけている。それは、この国において国民の「主食」さえもが、もはや守られるべき権利ではなく、足元を見られるための弱みになっているということだ。
主食の危機を放置する国家の姿勢は、国民を「どんなに高くても、これさえあれば文句を言わずに耐え忍ぶ従順な羊」と捉えている証左ではないか。ならば、私たちが取るべき道は一つしかない。その「弱み」を自ら断ち切ることだ。
「米をやめる」という決意は、一見すると極端で、あるいは自虐的な選択に映るかもしれない。しかし、その本質は極めて攻撃的で戦略的な「主導権の奪還」である。米という特定の穀物への依存を捨て、安価で供給の安定したパスタや他の炭水化物へと大胆にシフトすること。それは、国家や硬直した市場が握っている「生殺与奪の権」を、自分たちの食卓に取り戻す行為に他ならない。
パスタを茹で、創意工夫を凝らして食卓を整える。その一口ごとに、私たちはこれまでの固定観念から解放される。米がないと生きていけないという思い込みこそが、私たちを縛る鎖だったのだ。この鎖を断ち切ったとき、消費者は初めて「選ぶ力」を持つ。高く売れば買う者がいなくなり、供給を渋れば価値が暴落する。市場の原理を冷徹に突きつけることでしか、軽んじられた国民の声は届かない。
もちろん、これは一時的な我慢ではない。既存の「食の常識」を一度解体し、自分たちの手で再構築する「食卓の武装」である。国が守らないのであれば、国民は自らの合理性によって生き残る道を選ぶ。
茶碗を置き、フォークを手に取る。その大胆な転換は、単なる家計の防衛策ではない。それは、国民を軽んじる構造に対する、最も静かで、かつ最も力強い「拒絶」の宣言なのである。



