ヒトサシユビの森
ズズっと、地面との接地点が数センチ動いただけだったが、健市がバランスを崩したことで、後輪が浮きあがった。
隻眼の健市の顔が歪んだ。
接地点との角度を深めたソアラは、崖地の縁をこすりながら、健市もろとも笹良川の河岸に落下した。
河岸に頭から激突すると、ガソリンが漏れだし引火した。
爆発音が響き、白い炎が閃いた。
小さな爆発音を繰り返し続き、炎とともに濃い灰色の煙が立ちのぼった。
煙は風に煽られて県道に達し、煙幕のように広がった。
かざねは麻袋を抱いたまま、道路の端に移動した。
急いでかざねは、麻袋のロープを解いた。
麻袋の中からいぶきの頭が見え、そしていぶきの顔が見えた。
「いぶき」
かざねは、いぶきから麻袋を取り払った。
「ごめんね、いぶき。怖かったでしょう。怪我はない? 何かされてない?」
いぶきは寝起きのように重い瞼をしていたが、両足で路上に立った。
かざねは、いぶきの右手に巻かれた包帯に気がついた。
「どうしたの、その手?」
かざねは、いぶきを抱きあげた。
いぶきはようやく目を開いた。
だが言葉を発する元気さは戻っていないようだった。
いぶきは包帯が巻かれた手を、かざねに見える高さにあげた。
そのとき、稲荷山の谷間に大地を震わすような、恐ろしい怒声が響いた。
「かざねぇぇぇ」
薄い煙の向こうに、健市が立っていた。
全身が血と煤にまみれ、地獄から帰還した悪魔の様相だった。
健市は手斧を振りかざして、かざねに迫った。
かざねはいぶきを胸にしっかり抱いて、その場にうずくまるしかなかった。
「死ねぇぇぇ」
と叫びながら健市がかざねの至近距離で手斧を振りあげたとき、一発の銃声が山間に轟いた。
銃弾は健市の左胸に命中した。
健市は口からどす黒い血を流し、手斧を振りあげた形のまま、頭から路上に突っ伏して倒れた。
かざねは銃弾が発射された方向を見た。
だが、漂う煙に遮られてよく見えない。
やがて煙の隙間から、はっきりと制服警官の姿を見ることができた。
江守だった。
江守は両足を広げ拳銃を構えたまま、しばらく動かなかった。
室町が江守に寄り添ったときも、まだ拳銃をおろすことができなかった。
「よくやった、江守」
自身の拳銃をホルスターにしまった室町が、江守に声をかけた。
目を見開いた江守の口元だけが、わなわなと震えた。
かざねは江守と室町に、無言で礼を伝えた。
「かざねぇぇ」
今度は甲高い声とともに、山から男が転げ落ちてきた。
亮太だった。
ぼろ雑巾のようなひどい身なりだった。
亮太は足を引きずりながら、周辺の様子を確かめた。
かざねといぶきが無事でいる姿を見て、ほっと胸を撫でおろした。
路上に倒れている健市を確認すると、緊張に糸が切れたのか、急に足の痛みがぶり返してきた。
「足が痛え。動けねえ。やすだぁぁぁ」
路上に座りこんで騒ぐ亮太に、安田が笑いながら近づいた。
かざねはあらためて、いぶきを抱えなおした。
「もう二度といぶきの手を離さない。約束する」
するといぶきは、「ママ」と言って左手で右手の包帯をほどき始めた。
かざねは、いぶきの左手を握って制止した。
「いぶき、だめ。お医者さんに診てもらわないと」
現場に警察車両の他に、消防車や救急車などが参集しつつあった。
いぶきは首を横に振って、さらに包帯を外し続けた。
怪我でもしているのではないかとかざねは目を背けたかったが、いぶきのすることを信じていぶきの手に視線を注いだ。
いぶきは包帯をすべて外し、最後のガーゼを剥ぎとった。
いぶきの右手が露わになった。
いぶきは右手の指を一本ずつ伸ばした。
親指、小指、薬指、中指。
そして人差し指。
いぶきの右手には指が5本とも揃っていた。
生まれたてのようなきれいな指だった。
怪我をした兆候もないいぶきの右手を見て、かざねは安堵した。
いぶきは、かざねの顔をじっと見つめた。
それからきれいな右手の人差し指を一本立てた。
かざねは怪訝そうな顔をして、いぶきを見た。
いぶきはそんなかざねの頬を、人差し指の先で突っついた。
いぶきの柔らかな指先が頬に触れる。
長く忘れていた感触だった。
かざねは、涙目でいぶきに微笑みかけた。
いぶきは不意に、人差し指を夜空に向けた。
かざねはいぶきとともに、星空を見あげた。
煙の霞が晴れ、いつしか上空には、満天の星空が広がっていた。
西の空を、流れ星が流れた。
山影から天空に向かって、駆けのぼるような流れ星だった。
白銀の尾を引いた流れ星は、天空の頂きでキラりと輝いた。
そして星空のなかに、溶けるように消えた。
完



