Scraper
- 現在 -
目が覚めたのか、ずっと頭は起きていたのか。おれは首を回して、卓上時計に目を向けた。赤いデジタルの文字は、『4:20』の形に光っている。隣ですうすうと眠るヒマリがフリマで買ってきたオンボロだが、課された唯一の仕事は正確にやっているだろう。だから今は確実に、午前四時二十分だ。
大喧嘩をして一旦離れたのが、一週間前の話。久々に帰ってきて、何ごともなかったように晩飯を二人で食べて、テレビを見て笑い、スマホの動画に切り替えて笑い、ヒマリが風呂に入ってまあまあでかい声で歌いながらメイクを落とし、おれは入れ違いに脱衣所に入って、スマートフォンのメッセージを見た。ヒマリはおれと同い年の二十二歳で、二年付き合っている。いい関係だし倦怠期なんてほど遠いが、昨日の夜十時の時点では、ひとりの時間が正直有り難かった。
新着メッセージの署名欄には『ポコ太郎』と出ていた。
めちゃくちゃ適当に付けられたあだ名なようで、本名は保古太郎だから、最初の文字がホからポになっただけで、ほとんど本名と同じだ。おれは平井和友という名前で、前に座るポコ太郎のでかい頭で黒板が見えなかったことをよく覚えている。つまり中学二年ぐらいまでは、黒板の死角を気にするぐらいには、おれも真面目だったのだ。
『なんて書いてあるん?』
確か、後ろからそう声を掛けたと思う。でかい頭をぐるりと振ってこっちを向いたポコ太郎は、こう答えた。
『なー、おれも近眼で見えん』
おれが黒板を読めないのは、お前のデカ頭が原因だ。そう言ってやりたかったが、ポコ太郎がいびつな歯を見せて笑うのを見ていると、何も言えなくなった。『デカ頭で見えんわ』と文句から始める選択肢もあったわけだが、それだと二十二歳になる今まで腐れ縁が続くことは、おそらくなかっただろう。ポコ太郎は大事な友人のひとりだ。肝心なことを言い忘れたり、目の前にある原因を見落としたりする雑な性格は相変わらずだが、一応は『仕事仲間』でもある。
ポコ太郎が借りているボロい一軒家は秘密基地のような感じになっていて、仕事が忙しいときは数日泊めてもらうこともある。昨晩こうやって帰ってくるまでの間も、おれはずっとポコ太郎の家にいた。三階に作ったミニ四駆のコースを挟んで向かい合わせに座り、ずっと話し込んでいた。
おれとポコ太郎の仕事は、履歴書に書けるタイプのものではない。返済が焦げ付いた奴が担保にした車の回収や、見張り、用心棒、脅迫、何かの運搬、もっと簡単なやつだと、ただ『その場所にいること』。とにかく、殺し以外ならなんでもありで、本当にくだらない仕事ばかりだ。それでも目の前にちらつく金額は結構大きいから、おれもポコ太郎も辞められないでいる。
上司と呼べる人間は二人いて、ひとりは出納係の渡嘉敷光弘。苗字はトカシキと読むから、トカさんと呼ばれていた。五十代半ばで、見た目は朗らかで七福神のようだが、実際には用心深くて異常に耳がいい。トカさんは社交的なタイプではなく、いつも薄暗い部屋で猫背になりながら金を数えていた。おれがそこに顔を出すのは、回収した金を預け入れるときと、もうひとつ。何か話したくなったときだった。トカさんは金を数える手を止めて、とりあえずは聞いてくれた。その顔はブルドッグのように垂れていて、最後はいつも『お前はこんな仕事しとったらあかんぞ』と締めくくった。おれとしては、それを言ってもらえる内が華だという自覚がどこかにあって、言われなくなったときが本当の潮時なんだろうと思いながら、締めくくりの言葉を聞いてきた。
もうひとりは、顔が広くてあちこちから仕事を取ってきていた春田秀樹。あだ名はなかったからずっと『春田さん』と呼んでいたが、ヒマリが『ルーさん』と呼ぶようになってからは、おれとポコ太郎の間だけで定着した。段取りにうるさく、トカさんと役割を逆にした方がいいのではないかと思えるぐらいに、その行動はそそっかしかった。おれなら、ルーさんのようなタイプから物を買おうとは思わない。あの手この手で焦らせてくるのは目に見えているからだ。背が高くてよくモテるルーさんはまだ三十代後半で、金払いがよかった。派手な見た目の通り人を集めるのが好きで、おれもしょっちゅうメシに誘われた。この辺は、『メシ行きませんか』と誘ったときに奥から嫌々炊飯器を持ってきたトカさんと完全に真逆だ。
どちらも、見習ってはならない先輩だったことは確かだ。でもおれは、ルーさんにメシを食いに行こうと誘われるより、トカさんにメシの話をして嫌々炊飯器を持ってこられる方がマシだった。そんな感じで、おれはトカさんを怖いと思ったことはなかったが、ポコ太郎はビビっていた。何故なら、トカさんには昔に人を殺しているという噂があったからだ。捕まることはなかったが、それがきっかけで家族と別れたらしく、形見のようになってしまったイプサムに乗り続けていた。子供の玩具みたいな緑色で、それは当時三歳だった息子が好きだった色。トカさんの口癖は『なんもやったられへんかった』で、そういうときは金を数えるのをやめて話し始めるから、おれが聞き役に回った。イプサムも、その緑色が好きだった『息子』も、何でも狭いと文句を言っていたふくよかな体型の『嫁』も、全てが二十年以上前の話。
トカさんは、二人の名前を言うことはなかった。その口調は自分から進んで罰を受けるみたいで、離婚したのは息子が小学校に上がる年。以来、転居先も分からないままらしい。当時のトカさんは二十代後半で、写真を見せてもらったことがあるが、今とそんなに体型は変わらないのに目だけぎらついていて、街中で撮った写真なのに、檻の中で唸っているみたいに見えた。この目なら、人を殺しても不思議じゃないし、それを知った嫁が息子を連れて一目散に離れるというのも、分かる気がした。
トカさんとルーさんの関係は独特で、トカさんが昔にルーさんを助けたことで、その恩返しをしている関係らしいというのを、どこかで聞いた。それがトカさんの『殺し』だという噂も、尾ひれがついて広まっている。そんな二人は折り合いが悪く、一緒にいるところは滅多に見なかったが、ルーさんの仕事が本業で、その経理がトカさんという役割分担らしかった。
おれがポコ太郎からの紹介で二人と出会ったのは三年前で、とんちクイズのような仕事がきっかけだった。『借金の担保にした車から絶対に降りない男を、どうにかして車から離れさせろ』という内容で、トカさんとルーさんがいつ出向いても、車の中に座ってドアロックをかけているという話だった。窓を割って引きずり出すと傷害になるから、それはできない。
期限は一週間。おれは三日ついて回ったが、そいつは確かに車を離れなかった。ただ、人間である以上は眠気も来るようで、ときどき路肩に停めて昼寝していることがあった。おれは電気街で工作用の道具を買い揃えて、思いつくままに『装置』を作った。昔から工作だけはずっと得意で、技術家庭の科目だけは常にA評価だった。実際、ポコ太郎に誘われるまでは機械系の専門学校に行こうと真剣に考えていたぐらいだった。
目が覚めたのか、ずっと頭は起きていたのか。おれは首を回して、卓上時計に目を向けた。赤いデジタルの文字は、『4:20』の形に光っている。隣ですうすうと眠るヒマリがフリマで買ってきたオンボロだが、課された唯一の仕事は正確にやっているだろう。だから今は確実に、午前四時二十分だ。
大喧嘩をして一旦離れたのが、一週間前の話。久々に帰ってきて、何ごともなかったように晩飯を二人で食べて、テレビを見て笑い、スマホの動画に切り替えて笑い、ヒマリが風呂に入ってまあまあでかい声で歌いながらメイクを落とし、おれは入れ違いに脱衣所に入って、スマートフォンのメッセージを見た。ヒマリはおれと同い年の二十二歳で、二年付き合っている。いい関係だし倦怠期なんてほど遠いが、昨日の夜十時の時点では、ひとりの時間が正直有り難かった。
新着メッセージの署名欄には『ポコ太郎』と出ていた。
めちゃくちゃ適当に付けられたあだ名なようで、本名は保古太郎だから、最初の文字がホからポになっただけで、ほとんど本名と同じだ。おれは平井和友という名前で、前に座るポコ太郎のでかい頭で黒板が見えなかったことをよく覚えている。つまり中学二年ぐらいまでは、黒板の死角を気にするぐらいには、おれも真面目だったのだ。
『なんて書いてあるん?』
確か、後ろからそう声を掛けたと思う。でかい頭をぐるりと振ってこっちを向いたポコ太郎は、こう答えた。
『なー、おれも近眼で見えん』
おれが黒板を読めないのは、お前のデカ頭が原因だ。そう言ってやりたかったが、ポコ太郎がいびつな歯を見せて笑うのを見ていると、何も言えなくなった。『デカ頭で見えんわ』と文句から始める選択肢もあったわけだが、それだと二十二歳になる今まで腐れ縁が続くことは、おそらくなかっただろう。ポコ太郎は大事な友人のひとりだ。肝心なことを言い忘れたり、目の前にある原因を見落としたりする雑な性格は相変わらずだが、一応は『仕事仲間』でもある。
ポコ太郎が借りているボロい一軒家は秘密基地のような感じになっていて、仕事が忙しいときは数日泊めてもらうこともある。昨晩こうやって帰ってくるまでの間も、おれはずっとポコ太郎の家にいた。三階に作ったミニ四駆のコースを挟んで向かい合わせに座り、ずっと話し込んでいた。
おれとポコ太郎の仕事は、履歴書に書けるタイプのものではない。返済が焦げ付いた奴が担保にした車の回収や、見張り、用心棒、脅迫、何かの運搬、もっと簡単なやつだと、ただ『その場所にいること』。とにかく、殺し以外ならなんでもありで、本当にくだらない仕事ばかりだ。それでも目の前にちらつく金額は結構大きいから、おれもポコ太郎も辞められないでいる。
上司と呼べる人間は二人いて、ひとりは出納係の渡嘉敷光弘。苗字はトカシキと読むから、トカさんと呼ばれていた。五十代半ばで、見た目は朗らかで七福神のようだが、実際には用心深くて異常に耳がいい。トカさんは社交的なタイプではなく、いつも薄暗い部屋で猫背になりながら金を数えていた。おれがそこに顔を出すのは、回収した金を預け入れるときと、もうひとつ。何か話したくなったときだった。トカさんは金を数える手を止めて、とりあえずは聞いてくれた。その顔はブルドッグのように垂れていて、最後はいつも『お前はこんな仕事しとったらあかんぞ』と締めくくった。おれとしては、それを言ってもらえる内が華だという自覚がどこかにあって、言われなくなったときが本当の潮時なんだろうと思いながら、締めくくりの言葉を聞いてきた。
もうひとりは、顔が広くてあちこちから仕事を取ってきていた春田秀樹。あだ名はなかったからずっと『春田さん』と呼んでいたが、ヒマリが『ルーさん』と呼ぶようになってからは、おれとポコ太郎の間だけで定着した。段取りにうるさく、トカさんと役割を逆にした方がいいのではないかと思えるぐらいに、その行動はそそっかしかった。おれなら、ルーさんのようなタイプから物を買おうとは思わない。あの手この手で焦らせてくるのは目に見えているからだ。背が高くてよくモテるルーさんはまだ三十代後半で、金払いがよかった。派手な見た目の通り人を集めるのが好きで、おれもしょっちゅうメシに誘われた。この辺は、『メシ行きませんか』と誘ったときに奥から嫌々炊飯器を持ってきたトカさんと完全に真逆だ。
どちらも、見習ってはならない先輩だったことは確かだ。でもおれは、ルーさんにメシを食いに行こうと誘われるより、トカさんにメシの話をして嫌々炊飯器を持ってこられる方がマシだった。そんな感じで、おれはトカさんを怖いと思ったことはなかったが、ポコ太郎はビビっていた。何故なら、トカさんには昔に人を殺しているという噂があったからだ。捕まることはなかったが、それがきっかけで家族と別れたらしく、形見のようになってしまったイプサムに乗り続けていた。子供の玩具みたいな緑色で、それは当時三歳だった息子が好きだった色。トカさんの口癖は『なんもやったられへんかった』で、そういうときは金を数えるのをやめて話し始めるから、おれが聞き役に回った。イプサムも、その緑色が好きだった『息子』も、何でも狭いと文句を言っていたふくよかな体型の『嫁』も、全てが二十年以上前の話。
トカさんは、二人の名前を言うことはなかった。その口調は自分から進んで罰を受けるみたいで、離婚したのは息子が小学校に上がる年。以来、転居先も分からないままらしい。当時のトカさんは二十代後半で、写真を見せてもらったことがあるが、今とそんなに体型は変わらないのに目だけぎらついていて、街中で撮った写真なのに、檻の中で唸っているみたいに見えた。この目なら、人を殺しても不思議じゃないし、それを知った嫁が息子を連れて一目散に離れるというのも、分かる気がした。
トカさんとルーさんの関係は独特で、トカさんが昔にルーさんを助けたことで、その恩返しをしている関係らしいというのを、どこかで聞いた。それがトカさんの『殺し』だという噂も、尾ひれがついて広まっている。そんな二人は折り合いが悪く、一緒にいるところは滅多に見なかったが、ルーさんの仕事が本業で、その経理がトカさんという役割分担らしかった。
おれがポコ太郎からの紹介で二人と出会ったのは三年前で、とんちクイズのような仕事がきっかけだった。『借金の担保にした車から絶対に降りない男を、どうにかして車から離れさせろ』という内容で、トカさんとルーさんがいつ出向いても、車の中に座ってドアロックをかけているという話だった。窓を割って引きずり出すと傷害になるから、それはできない。
期限は一週間。おれは三日ついて回ったが、そいつは確かに車を離れなかった。ただ、人間である以上は眠気も来るようで、ときどき路肩に停めて昼寝していることがあった。おれは電気街で工作用の道具を買い揃えて、思いつくままに『装置』を作った。昔から工作だけはずっと得意で、技術家庭の科目だけは常にA評価だった。実際、ポコ太郎に誘われるまでは機械系の専門学校に行こうと真剣に考えていたぐらいだった。



