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タカーシャン
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novelistID. 70952
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人間の常識を逸した悪事を、どう捉えるか

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人間の常識を逸した悪事を、どう捉えるか

――生物学が示す社会倫理の盲点――

凄惨な事件が起きるたび、私たちは決まってこう言う。
「人間のやることではない」「理解不能だ」「常識を逸している」。
そしてその言葉と同時に、社会は思考を止める。

だが、本当に「人間ではない」行為など存在するのだろうか。

生物学の視点に立つと、この問いはまったく違う姿を見せる。
生物学は善悪を語らない。ただ、反応と環境、適応と破綻を見る。

人間の脳は、本能・感情・理性が重なり合ってできている。
理性とは、生物として後から付け足された“抑制装置”にすぎない。
それが疲弊し、孤立し、過剰なストレスにさらされるとき、
人は理性的に「悪く」なるのではなく、抑制が効かなくなる。

このとき噴き出す攻撃性や支配欲、破壊衝動は、
本来は生存のために備わった古い反応だ。
危険に対抗するため、群れを守るために必要だった機能である。

問題は、それが現代社会ではもはや
生存にも、幸福にも寄与しない形で暴走することにある。

生物学的に見れば、
常識を逸した悪事とは「異常な悪意」ではない。
適応が失敗した結果としての過剰反応である。

ここで重要なのは、こうした行為が
「特別な人間」からだけ生まれるわけではないという事実だ。

孤立、貧困、排除、慢性的な不安。
人が人との関係を失い、「存在」として扱われなくなったとき、
共感や抑制を司る回路は確実に弱っていく。

つまり、悪事は個人の内部から突然湧くのではない。
社会との関係が断たれた地点に、静かに蓄積されていく。

それにもかかわらず、私たちの社会倫理は、
悪事を「個人の異常性」に回収することで安心しようとする。
罰し、排除し、「あれは例外だ」と線を引く。

だが生物学は、例外という言葉を好まない。
条件が揃えば、同じ反応は誰にでも起こりうるからだ。

ここに、現代社会の倫理の盲点がある。
私たちは「正しさ」を守ることに熱心で、
「存在」を守ることに鈍感になってはいないだろうか。

生物は、存在が脅かされるとき、
善悪を選ばない。生き延びるために反応するだけだ。

だからこそ、
常識を逸した悪事を防ぐ倫理とは、
より厳しい規範を積み上げることではない。

人が人でいられる条件――
つながり、承認、回復の余地――
それらを社会の根として育てることである。

悪を断罪することは容易い。
だが、悪が生まれない土壌を問うことは難しい。
しかし、そこに向き合わない限り、
私たちは同じ問いを、同じ悲しみとともに繰り返し続けるだろう。