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藍城 舞美
藍城 舞美
novelistID. 58207
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朽ちた聖域 Ⅲ5人目の演奏者

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(楽譜は地面にあるよりも譜面台の上にあるほうが自然だ)
 その考えが頭に浮かんだのか、伊藤さんはその楽譜をピアノの譜面台にそっと置いた。
 その瞬間――4人は体感温度がさらに1℃下がったように感じ、亜美は両方の二の腕に手を当てた。
 そして伊藤さんがピアノの左側を二度見した。そこには、光をわずかに遮る影があった。灰色がかった黒い布が、ほのかに時代のほこりをまとって揺れる。それは、誰かの記憶の断片のように形を成していた。その肌は透けるように白く、遠い記憶の底を見つめるような目をしていた。
「な、何か1人多くないか…?」
 伊藤さんが仲間たちの顔を見ながら尋ねると、彼らは首を縦に1、2回振った。
 青年は、ピアノに近寄ってきた。伊藤さんはピアノの椅子のそばを離れ、濱内の居る位置まで移動した。
 そして青年はおもむろに椅子に腰掛けると、何の言葉もなく演奏を始めた。

 彼の奏でる曲は、伊藤さんですら初めて聞く曲だった。フォーレの名作「レクイエム」の終曲「イン・パラディスム」を思わせる優しく慰めるような旋律で、コードは変ホ長調のようだ。彼は曲に絶妙に強弱をつけ、ペダルも適宜踏みながら演奏している。
 4人は、青年が演奏を始めたときには眉間に軽くしわを寄せて彼を見つめていたが、彼のピアノの音色は、地上に居ることを忘れさせそうなほど清らかで、彼らの顔は次第に穏やかになっていった。特に曲の終盤近くになると、亜美の目から一滴の涙がこぼれた。

 やがて最後の音が消えたとき、青年は微笑んだ。4人は拍手せずにはいられなかった。
(何だか、指先が祈ってるようだったわ…)
 亜美は心の声で言った。

 青年は椅子を離れると、亜美たちのほうに振り向き、まるで語りかけるようにつぶやいた。

「……壁の中に、僕は居る」

 自分たちの日常会話にはまず登場しない言い回しを聞いて、音大生とОBたちはお互いに顔を見合わせた。さらに奇妙なことに、その青年が立っているはずの所には、彼の姿がなかったのだ。誰の声も聞こえず、木の匂いと冷気だけがそこに漂っていた。
 次の瞬間、ミシ…と壁が鳴った。壁の低い所の一角がひとりでにひび割れ、レンガが床に落ちたのだ。
「何だ、今の…」
 杉内先輩がそこに近付き、亜美と濱内も続いた。伊藤さんは生唾を一度飲み、丁寧に壁を取り除き始めた。
「手伝います」
 濱内が作業に加わった。亜美は杉内先輩に密着しそうな位置に立ち、不安そうに彼らを見つめた。