兆し
――あらゆる病気・災難・事故・苦難を予防する哲学――
白石診療所の裏手には、風がよく通る。
丘の上に建つ古びた木造の建物。玄関のチャイムは鳴らない。
代わりに吊るされた小さな風鈴が、患者の訪れを知らせる。
白石医師は七十八歳。
この町で五十年以上、医者として生きてきた。
もうすぐ閉院だと聞いて、春野は東京から数日だけ手伝いに帰ってきた。
春野三十五歳。都心の総合病院勤務。
最新の設備とデータに囲まれ、朝から晩まで「異常値」と戦っている。
だが、あの世界には「人の気配」がなかった。
だからこそ、この古い診療所に戻ってきたのかもしれない。
「今日は北風だな」
診察室に入るなり、白石はそう言った。
「膝が痛む人が多い日だ」
そのつぶやきに、春野は苦笑した。
気象データを見ても、北風と関節痛に因果はない。
だが、その日ほんとうに、関節の痛みを訴える患者が次々とやってきた。
診察室には、薬の匂いよりも、土と風の匂いがする。
壁にはカレンダーも時計もない。
あるのは季節を映す小さな花瓶と、
患者から届いた手紙が束ねられた麻紐の束だけだった。
昼過ぎ、八十三歳のミヨさんが現れた。
山のような洗濯物を背負い、笑いながら入ってくる。
「先生、今年は体がまだ冬を迎える準備をしてないみたいでね」
白石は笑って頷く。
「じゃあ、ゆっくり冬にしていきましょうか」
血圧計を腕に巻きながら、白石は小さく言った。
「体はね、ちゃんと季節を感じてるんだよ。心が急ぎすぎると、ずれる」
春野はモニターの数字を見つめながら、その言葉の意味を測りかねた。
ミヨさんは帰り際、春野に笑いかけた。
「先生はね、“病気は声を出す前に息を止めるんですよ”って言ってたよ」
息を止める――
春野の心に、その言葉が静かに残った。
夜。
診療が終わり、二人で湯飲みを手にした。
「春野、お前はまだ若い。けれど、医者は年齢よりも“耳の深さ”で育つ」
白石は、湯飲みの湯気を見つめたまま続けた。
「予防ってのは、薬や制度の話じゃない。
病気も災難も事故も苦難も、みんな“声”を出す前に小さなサインを送ってくる。
それを感じ取れる人を増やすのが、医者の本当の仕事なんだ」
春野は、思わず問い返した。
「でも先生、それは経験とか勘ですよね。
データじゃ証明できない。医学の外の話じゃないですか」
白石は笑った。
「そう。外だ。でも、人の体は、外とつながってるんだよ」
そのとき、外で風が鳴った。
風鈴が微かに鳴り、裏山の木々がざわめく。
「風を見ろ。あれはただの気象現象じゃない。
空気が動いてるんだ。空も地も、人も。
その中で病は芽を出す。だから医者は、風を感じなきゃいけない」
春野は何も言えなかった。
都会では、風の音すら聞いたことがなかった。
いつもエアコンと機械音の中にいた。
翌朝、診療所の前に白い霜が降りていた。
患者の姿はなく、白石は裏庭で落ち葉を集めていた。
「春野、ほら見ろ。この葉っぱ」
指でつまんだ一枚は、先のほうが黒ずんでいた。
「病気と同じだ。表面が枯れる前に、根が傷んでいる」
春野はその葉を見つめながら問う。
「先生、人間も、根が痛むんですか」
「痛むとも。心が急ぎすぎると、体は追いつけない。
焦り、怒り、寂しさ――みんな“未病”のうちに現れる。
それを見逃さなきゃ、病気の半分は防げるんだ」
白石は静かに息をついた。
「だが、今の社会は“起きたこと”ばかり見ている。
起こる前に感じることを、誰も教えなくなった」
昼下がり。
町の小学校から帰る子どもたちの声が、風に乗って聞こえた。
白石は窓を少し開け、風の流れに顔を向けた。
「春野、人はね、災難も事故も苦難も、全部“前触れ”を持ってやってくる。
だから、それを感じ取る心を育てれば、生き方そのものが変わる。
医者でなくても、誰でもできることなんだよ」
春野は、ふと問いかけた。
「先生は……自分の“兆し”を感じたこと、ありますか?」
白石は笑い、喉の奥で咳をひとつした。
「感じたさ。もうすぐだな、と思ってるよ」
「……もうすぐ、って?」
白石は春野の顔をまっすぐ見た。
「命がね、次の季節に移る“兆し”だ」
その目は、透明だった。
怖さも、悲しみもなく、ただ静かに澄んでいた。
数日後、白石は静かに息を引き取った。
冬の初雪が降った朝だった。
診療所の風鈴が、ひとりで鳴っていた。
春野は、白石が遺したノートを開いた。
そこには、薬の処方ではなく、こんな言葉が書かれていた。
「予防とは、未来を守る技術ではない。
いまを丁寧に生きる心の構えである。」
ページの端に、小さくこうもあった。
「人は、痛みよりも先に“予感”を感じ取れる。
それを失ったとき、文明は病む。」
春野はノートを閉じ、診療所の外に出た。
風が、頬を撫でた。
白い雲が、ゆっくり流れていく。
都会に戻れば、再び忙しい日々が待っている。
だが、彼の中にはもうひとつの医療が芽生えていた。
それは、聴診器ではなく、風の音に耳を澄ます医療だった。
春野はその後、診療所を継いだ。
看板もそのまま、「白石診療所」。
患者が来るたびに、彼は言う。
「急がなくていい。体が何を言いたがっているか、まず聴いてみましょう」
待合室には、今も風鈴が揺れている。
その音が、誰かの心に小さな“兆し”を響かせる。
――それが、白石が遺した「予防の哲学」だった。



