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タカーシャン
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novelistID. 70952
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実は一番幸福度が高い年収は、意外と低かった

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実は一番幸福度が高い年収は、意外と低かった

――「足るを知る」から「生きるを選ぶ」へ――

「もっと稼げたら、もっと自由になれる」。
この言葉ほど、現代人の心を縛っている呪文はないだろう。
しかし実際には、「幸福度が最も高く感じられる年収」は、意外なほど低い。米プリンストン大学のカーネマンとディートンの研究によれば、年収約7万5000ドル──日本円で900万円前後を境に、幸福度の上昇は頭打ちになるという。
国内の調査でも、600万〜800万円の層が最も生活満足度が高いという結果が繰り返し示されている。

この数字は、経済的ゆとりと精神的豊かさの「ちょうどいい交差点」を示している。
それ以上稼いでも、生活の快適さや満足度が比例して上がるわけではない。むしろ、責任の増大、時間の圧迫、人間関係の軋みなど、目に見えぬコストが幸福を蝕んでいく。
高収入とは、しばしば「心の残業」を引き受けることでもあるのだ。

だが、この現象を単なる「お金と幸せの関係」として片づけてしまうのは浅い。
そこには、現代社会が抱える「幸福の錯覚構造」が潜んでいる。
我々は幼い頃から、「努力すれば豊かになり、豊かになれば幸せになれる」という物語を刷り込まれてきた。
しかしその物語は、資本主義が生み出した“信仰体系”にすぎない。
労働による生産性の上昇が、必ずしも「幸福の上昇」と連動しない現実を、今や多くの人が肌で感じ始めている。

では、幸福とは何か。
それは「足るを知る」ことだ、という古い答えに戻るのも一案だが、現代の私たちにはもう一歩先の洞察が求められる。
単に足るを知るのではなく、「自分にとって何が“足りている”のか」を問い直すこと。
それは、社会的比較からの離脱を意味する。
SNSで他者の暮らしを覗き見、評価を気にし、他人の人生の物差しで自分の幸福を測る──この構図を断ち切らない限り、私たちは永遠に「幸福の借り暮らし」から抜け出せない。

幸福の本質は、他者との比較ではなく、時間との関係にある。
自分の時間をどれだけ自由に使えるか。
好きな人と過ごす時間、静かに考える時間、眠る時間──その「質」が幸福の土台となる。
そして皮肉なことに、収入が増えるほど、その時間は減っていく傾向がある。
つまり、年収900万円前後という幸福のピークは、「経済的自由」と「時間的自由」が最も調和する点なのだ。

哲学的に言えば、幸福とは「所有」ではなく「存在」の充実である。
稼いで得る快楽は一時的だが、「自分が生きている」と実感できる行為──誰かを喜ばせる、何かを創る、自然に心を向ける──それらは継続的な幸福をもたらす。
お金はその“助演”にはなれるが、“主演”ではない。
それでも私たちは、主演の座をお金に譲り渡してしまう。なぜなら、それが最も分かりやすく、測定しやすい幸福だからだ。

だが、人間の幸福は本来、数値化できない。
幸福を年収で測ろうとすること自体が、近代的合理主義の限界を示している。
幸福とは、「自分の内側の静けさ」と「他者とのつながり」の両立である。
つまり、孤独でも群れでもなく、“関係の質”が問われる。
この点で、現代の幸福論は「経済学」ではなく「関係哲学」として再構築される必要がある。

結論を言おう。
幸福度の高い年収が意外と低いのは、人間が本来「足りること」に幸福を感じる生き物だからだ。
無限の欲望を追うより、「今あるもの」を味わう感性を育てることが、幸福の核心である。
そしてそれは、収入の多寡とは関係がない。

幸福とは、収入の曲線ではなく、生き方の選曲である。
「何を持つか」よりも、「どんな音で生きるか」。
足るを知る哲学とは、我慢の教えではなく、自分に最もふさわしい“リズム”を選ぶ自由の哲学なのだ。