レストラン
私はとある都会のレストランでシェフをやっている。これでも長年に亘ってトップシェフを務めてきた。それだけにそれなりの自信はある。それなり、というのは、三十年とシェフをしてきたにも関わらず、料理という奥深い芸術に終わりはないからだ。
ミシュラン星のないレストランのシェフに何が分かるのか? その意見はごもっともだ。しかし、ミシュランがなくなって美味しい料理だってある。チェーン店の千円のドリアに五千円のステーキが負けることだってある。コンビニのおにぎりの手軽さ、美味しさに比べたら、わざわざ高級料亭に出てくる定食は存在していないのも同然だろう。料理は人の生のためにあるのであって、美味しさは値段や評価だけでは決まらないのだ。
だが、私がそこで食べたポテトサラダはさすがに酷かった。
私はその久々に取れた連休に、車を出して家族で出かけた。娘はそろそろ中学生になる。反抗期を迎えたら暫くは口も聞いてくれないだろうと妻がいうものだから、その前に三人で遠出しようとなったんだ。口は熱海の美味しい食べ物を待ち焦がれていた。海鮮でも良いし、熱海プリンなるものもあると聞く。
だけれど熱海へ着く前には私のお腹は随分とすき始めていた。仕事柄年中食べてばかりだったからか、胃は随分と欲しがりになっているらしい。それで道端に一列に並ぶ店舗の中にコンビニはないかと探していたら、
「せっかくなら熱海で美味しいもの食べたい」
と妻が駄々をこねるように言ったんだ。
「ねー」
と娘も言って、それだから道路標識やカーナビゲーションが熱海を知らせてすぐに入った店に入ろうとした。だがどこもかしこも軒並み満車で、熱海に着いてから三十分も車を転がしてから、ようやく一軒車が空いている店を見つけた。
そこはハワイアン風のレストランだった。
やや盛り上がった、山というべきなのか丘というべきなのかよくわからないが、そこにぽつんとあった。道路が丁度曲がっている最中にあって、蛇の背中の上にあるような、といったらわかるだろうか? 周りに店らしきところはそこしかなく、あとは自然がいい塩梅に生い茂っていた。そこから熱海の海が遠くに見下ろせて、車を走らせた甲斐があったと思った。娘も妻も良い顔をしていた。
長くやっているのだろうということは一目で分かった。屋根や窓ガラスが古くなって曇っており、扉のノブや屋根の木材も剝げていた。これは隠れた名店を見つけたに違いないと、私は思わず舌をなめずった。
扉を開けると、左のキッチンから丁度出てきたウェイターがそのまま応対した。女子大生か高校生のバイトだったろう。しかしひどい猫背で、黒髪を一つ結びにしていたが、髪もぼさぼさだった。青と白のストライプの前掛けをしていたが、それも糸で解れていた。
私たちは窓際のテーブル席に通された。テーブルもソファーもまた古めかしかった。恐らく修繕費がないのか、ガムテープが所々貼ってあり、しかもそれは暗く濃い茶色のテーブルと椅子の色とまるで合わない蛍光色の緑のガムテープだった。
娘と妻はソファー席に座り、私は椅子に座った。妻たちの座る席の後ろには窓があり、もっとも窓に施されたペイントと汚れているせいか外はモザイクがかかったように殆ど見えない。
「ごゆっくりどうぞ」
ウェイターはやる気ないように言って、お冷を置くとそそくさとそのままキッチンの裏に戻っていった。
「まあ、随分と可愛げがないのね」と妻が嫌味ったらしく独り言を呟くように言った。
「まあいいじゃないか、どうせアルバイトだろう」と私は言って、早速メニューを開いた。
娘は既に食い入るようにメニューを見ていた。よほどお腹が空いたのだろう。
メニューをざっと見ている間に、勝手に耳に入ってきた会話から、どうにもここのお客さんは地元の人たちが殆どであることが分かった。「青い服を着たでかい男」「金髪灰色シャツのねーちゃん」「ちっこいムスメ」という声が聞こえて、もしやと思い見渡したらそれらに該当するのは私たちしかいなかったのだ。その一瞥が効いたのか、ひそひそ話は収まったが、私はそのままついでとばかりに店内を見回した。
客層の殆どが私と同じくらいの中年の男たちで、またそれ以上の年寄りの姿も見られた。四人掛けのテーブル席は私たちが座るものを含めて八つ、カウンター席もありそこには十人程度座れるだろう。そこそこの広さであり、またメニューの値段を見ても、かなりリーズナブルかつ儲けも確保できる広さであると、私は関心した。
そのカウンター席に一人、恐らく二十代か三十代ほどの男がこちらに背を向けて座っていた。黒いシャツを着ていて、髪もワックスがつけられていたのが照明の反射から分かった。そしてその音と動作から、何かをすすっていた──その音を聞くと私の忘れていた空腹も再度鳴りだして、私は目線をまた妻と娘に戻すのだった。
「いいところだな」と私は言った。
「ええそうね──ええと、じゃあ私はカルボナーラと…えーと……。詩音はどうする?」と妻は目線はメニューに向けたまま娘に訊いた。「あ、このお子様セットでいいんじゃない? ポテトサラダにハンバーグにコンソメスープ…詩音の嫌いなピーマンは入ってないみたいだし」
「うん。じゃそれにする」と娘は言った。
「で、あなたは?」と妻は私に訊いた。
「ん? ああ。そうだな──…最近店でムール貝を仕入れたんだが、どうにも料理法が思いつかなくてなあ…酒蒸しにするしかないか…いや、ここにムール貝料理とかあれば──」
「うんうん。そうね。はいはい。じゃあこのイカ墨パスタとかでどう? いいでしょ。お腹すいてんだから…もう──あ、店員さん!」
妻は手を挙げてウェイターを呼んだ。──「ほら、早く決めて」
ウェイターは後ろのポケットから伝票を取り出して、「はいなんでしょう」と小さく言った。
「ええとね、この子(と娘を指差して)にはお子様ランチセット」
「お子様セット……はい」
「私はカルボナーラと……ええ、カルボナーラでいいわ。で…──ほらあなたは? イカ墨パスタ?」
「カルボナーラ…はい。イカ墨パスタ──」とウェイター。
「ああ、待ってくれ。ぼくは……ええそうだな…──ステーキ! 肉がいい! ──ええと……だから──」
何を食べるか決めてもいないのに妻がウェイターを呼んだものだからか、メニューをはぐっても私の目には肉料理らしきものが目に入らなかった。
妻は「ほらはやくして」と急かしてき、ウェイターは小さくため息した。娘は店内を見回して、私はメニューの裏を見たり隈なくステーキを探していたが、結局肉料理を見つけることが出来なかった。
「ええと、ええと……。ああ、そうだ」と私は体を捻ってウェイターの目を見て言った、「せっかくだから何か肉料理をオススメしてくれないか?」
彼女の前髪は目に被っていて、陰湿な印象を抱いた。まるで無愛想で、しかし私がそういうとその口元には苦悶といったような表情がうかがえた。──私のレストランだったらアルバイトでも採用しないタイプだったが……正直それはどうでもよい。
「え、肉料理ですか。あー、そうですね──。ちょっとおと、シェフに聞いてきますね」
「え、いやいやいや、ならいい──」と私が言い切る前にウェイターは行ってしまった。
ミシュラン星のないレストランのシェフに何が分かるのか? その意見はごもっともだ。しかし、ミシュランがなくなって美味しい料理だってある。チェーン店の千円のドリアに五千円のステーキが負けることだってある。コンビニのおにぎりの手軽さ、美味しさに比べたら、わざわざ高級料亭に出てくる定食は存在していないのも同然だろう。料理は人の生のためにあるのであって、美味しさは値段や評価だけでは決まらないのだ。
だが、私がそこで食べたポテトサラダはさすがに酷かった。
私はその久々に取れた連休に、車を出して家族で出かけた。娘はそろそろ中学生になる。反抗期を迎えたら暫くは口も聞いてくれないだろうと妻がいうものだから、その前に三人で遠出しようとなったんだ。口は熱海の美味しい食べ物を待ち焦がれていた。海鮮でも良いし、熱海プリンなるものもあると聞く。
だけれど熱海へ着く前には私のお腹は随分とすき始めていた。仕事柄年中食べてばかりだったからか、胃は随分と欲しがりになっているらしい。それで道端に一列に並ぶ店舗の中にコンビニはないかと探していたら、
「せっかくなら熱海で美味しいもの食べたい」
と妻が駄々をこねるように言ったんだ。
「ねー」
と娘も言って、それだから道路標識やカーナビゲーションが熱海を知らせてすぐに入った店に入ろうとした。だがどこもかしこも軒並み満車で、熱海に着いてから三十分も車を転がしてから、ようやく一軒車が空いている店を見つけた。
そこはハワイアン風のレストランだった。
やや盛り上がった、山というべきなのか丘というべきなのかよくわからないが、そこにぽつんとあった。道路が丁度曲がっている最中にあって、蛇の背中の上にあるような、といったらわかるだろうか? 周りに店らしきところはそこしかなく、あとは自然がいい塩梅に生い茂っていた。そこから熱海の海が遠くに見下ろせて、車を走らせた甲斐があったと思った。娘も妻も良い顔をしていた。
長くやっているのだろうということは一目で分かった。屋根や窓ガラスが古くなって曇っており、扉のノブや屋根の木材も剝げていた。これは隠れた名店を見つけたに違いないと、私は思わず舌をなめずった。
扉を開けると、左のキッチンから丁度出てきたウェイターがそのまま応対した。女子大生か高校生のバイトだったろう。しかしひどい猫背で、黒髪を一つ結びにしていたが、髪もぼさぼさだった。青と白のストライプの前掛けをしていたが、それも糸で解れていた。
私たちは窓際のテーブル席に通された。テーブルもソファーもまた古めかしかった。恐らく修繕費がないのか、ガムテープが所々貼ってあり、しかもそれは暗く濃い茶色のテーブルと椅子の色とまるで合わない蛍光色の緑のガムテープだった。
娘と妻はソファー席に座り、私は椅子に座った。妻たちの座る席の後ろには窓があり、もっとも窓に施されたペイントと汚れているせいか外はモザイクがかかったように殆ど見えない。
「ごゆっくりどうぞ」
ウェイターはやる気ないように言って、お冷を置くとそそくさとそのままキッチンの裏に戻っていった。
「まあ、随分と可愛げがないのね」と妻が嫌味ったらしく独り言を呟くように言った。
「まあいいじゃないか、どうせアルバイトだろう」と私は言って、早速メニューを開いた。
娘は既に食い入るようにメニューを見ていた。よほどお腹が空いたのだろう。
メニューをざっと見ている間に、勝手に耳に入ってきた会話から、どうにもここのお客さんは地元の人たちが殆どであることが分かった。「青い服を着たでかい男」「金髪灰色シャツのねーちゃん」「ちっこいムスメ」という声が聞こえて、もしやと思い見渡したらそれらに該当するのは私たちしかいなかったのだ。その一瞥が効いたのか、ひそひそ話は収まったが、私はそのままついでとばかりに店内を見回した。
客層の殆どが私と同じくらいの中年の男たちで、またそれ以上の年寄りの姿も見られた。四人掛けのテーブル席は私たちが座るものを含めて八つ、カウンター席もありそこには十人程度座れるだろう。そこそこの広さであり、またメニューの値段を見ても、かなりリーズナブルかつ儲けも確保できる広さであると、私は関心した。
そのカウンター席に一人、恐らく二十代か三十代ほどの男がこちらに背を向けて座っていた。黒いシャツを着ていて、髪もワックスがつけられていたのが照明の反射から分かった。そしてその音と動作から、何かをすすっていた──その音を聞くと私の忘れていた空腹も再度鳴りだして、私は目線をまた妻と娘に戻すのだった。
「いいところだな」と私は言った。
「ええそうね──ええと、じゃあ私はカルボナーラと…えーと……。詩音はどうする?」と妻は目線はメニューに向けたまま娘に訊いた。「あ、このお子様セットでいいんじゃない? ポテトサラダにハンバーグにコンソメスープ…詩音の嫌いなピーマンは入ってないみたいだし」
「うん。じゃそれにする」と娘は言った。
「で、あなたは?」と妻は私に訊いた。
「ん? ああ。そうだな──…最近店でムール貝を仕入れたんだが、どうにも料理法が思いつかなくてなあ…酒蒸しにするしかないか…いや、ここにムール貝料理とかあれば──」
「うんうん。そうね。はいはい。じゃあこのイカ墨パスタとかでどう? いいでしょ。お腹すいてんだから…もう──あ、店員さん!」
妻は手を挙げてウェイターを呼んだ。──「ほら、早く決めて」
ウェイターは後ろのポケットから伝票を取り出して、「はいなんでしょう」と小さく言った。
「ええとね、この子(と娘を指差して)にはお子様ランチセット」
「お子様セット……はい」
「私はカルボナーラと……ええ、カルボナーラでいいわ。で…──ほらあなたは? イカ墨パスタ?」
「カルボナーラ…はい。イカ墨パスタ──」とウェイター。
「ああ、待ってくれ。ぼくは……ええそうだな…──ステーキ! 肉がいい! ──ええと……だから──」
何を食べるか決めてもいないのに妻がウェイターを呼んだものだからか、メニューをはぐっても私の目には肉料理らしきものが目に入らなかった。
妻は「ほらはやくして」と急かしてき、ウェイターは小さくため息した。娘は店内を見回して、私はメニューの裏を見たり隈なくステーキを探していたが、結局肉料理を見つけることが出来なかった。
「ええと、ええと……。ああ、そうだ」と私は体を捻ってウェイターの目を見て言った、「せっかくだから何か肉料理をオススメしてくれないか?」
彼女の前髪は目に被っていて、陰湿な印象を抱いた。まるで無愛想で、しかし私がそういうとその口元には苦悶といったような表情がうかがえた。──私のレストランだったらアルバイトでも採用しないタイプだったが……正直それはどうでもよい。
「え、肉料理ですか。あー、そうですね──。ちょっとおと、シェフに聞いてきますね」
「え、いやいやいや、ならいい──」と私が言い切る前にウェイターは行ってしまった。



