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京都七景【第十九章】

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 そんなとき、心の迷妄を払って初心に帰るべく、ロマン・ロラン研究所を訪ねてみようという気が起きた。早速、家を出て研究所の門前に立ってベルを押したが返事はなかった。何度押しても返事はないままだ、困ったな、こんなとき、堀井先生が通りかかれば、何かいい方法を見つけてもらえるのに残念。仕方がない、帰ろう、と振り返ったとき、その堀井先生と目があった。
 これはもう僥倖(ぎょうこう)というしかない。ああ、よかった。うれしい。最初はそう思った。けれども、そのすぐ後から、自分が諸手をあげてうれしいと思ったことに自己嫌悪を催した。
 このままでは、きっと近いうちに自分の気持ちをコントロールできなくなる。よおーし、先生にここで会ったが百年目、今こそが自分の気持ちを断ち切る千載一遇のチャンスだ。告白しよう。だが、先生が仮に私に好意を持っていたとしたら、段取りを間違えれば、逆に先生の気持ちをひどく傷つけかねない。ここは慎重に段階を踏むべきだ。では、どうしたらいいだろうと、喫茶店で先生と一緒にコーヒーを飲みながらよく考えてみた。すると、一つの確かな解決方法が浮かんできた。それが今回の告白だった。
 まず自分を好きにならないでほしいと先に先生に頼んでおく。そうすれば、その言葉が、先生の私への好意を(もしあるとして)押しとどめる堰になってくれるだろう。
 そうしたあとで、そのわけは自分がすでに先生に好意を寄せているからだと言えば、私の人生の目標を知っている先生は、きっと私のことを諦めてくれるだろう。しかも、私が先生に好意を寄せているというそのことは(事実だけに)、おそらく、先生をひどく傷つけてしまうことから少しでも先生を守ってくれるのではないかと、そんな都合の良いことを考えたのだという。

「ごめんなさい」
「いや、いいんだ。千草さんの目標はよくわかった。その目標は、千草さん以外においそれとはできるものじゃない。ぜひ、実現に向けて頑張ってほしい。及ばずながら俺も学習面で引き続き応援させてもらうよ。千草さんみたいな、一途な、うれい顔の素敵な女の子から好意を寄せられてよかったよ。もちろん笑顔はもっと素敵だけれど」
「まあ、それは言い過ぎやわ。ところで、お母ちゃんが、どうして先生のこと好きなのか、わからはる?」
「いや、全く」
「それはな、先生。うちのおじさんの若い頃にそっくりなんやて。だからお母ちゃん、薦めてくるねん。どう、お分かりやしたか?」

 俺には全くわからなかった。女の家族ばかりと思っていたが、おじさんも一緒に暮らしていたとは。
 ところが全くそうではなかった。おじさんとは母親の兄弟という意味でなく、滅多に姿を現さない実の父親の千草さんによる呼び名だそうだ。ここでも母と娘は別の時代を生きているのだと思った。以上が俺の失恋話だ。ご清聴ありがとう。

「一つ、質問してもいいかい?」大山が声を上げた。

「もちろんさ、ただし猛烈に眠いから、その一問だけだぜ」みんなはすでに目を瞑っている。

「失恋した者同士、その後の子弟関係にひびが入らなかったかい?」
「いやあ、全くそんなことはない。気持ちをはっきりさせたので、お互いさっぱりしたものさ。千草さんなんか、どんな些細なことにも何かとキャハハと言っては、ケラケラ笑い転げている。ついこの間のことがまるでなかったことのように見える。それでも、学業と読書には真剣そのもので、やはり固い決意を感じざるを得ない。この恋が復活することは、どう見てもなさそうだな」

 堀井はそう結論づけた。その時の顔は、窓からの薄い朝日を受けて、ちょっと寂しそうに見えた。

「やあ、みんな。今夜はというか、今朝までお疲れ様でした。なんとか失恋供養を終えることができてよかった、よかった。何だか大きなことを達成したような気がするぜ。それで、これからどうしようか? ひとまず眠って、それから次の行動に移ったほうがいいと思うが。神岡くん、ここで雑魚寝してもかまわないか?」と大山が采配を振る。

「もちろんだよ、床の上でよければ、夏だし、好きなだけ寝ていってくれ。起きたらどこかで、朝飯、いや昼飯でも一緒に食べようじゃないか」と神岡。

「あの、すまんが露野とおれは失礼するよ。たくさん話したので、二人とも神経が立っていて眠れる気がしない。下宿まで一緒に歩いているうちに眠気が戻って来ると思うからさ。それにこの床に五人寝るのはちょっと申しわけないし」

 そういって、私と露野は神岡の下宿を後にした。
 それからは、お互い無言のまま、ひとまず錦林小学校前の私の下宿まで歩いた。私は、露野に「ここで寝ていかないか」と誘ったが、露野はまだ眠くなりそうもないからと、そこで別れて、岡崎法勝寺町の自分の下宿へと向かった。
 こうして私たち5人の大文字の夜は終わり、その後お互い音信を取らぬまま、三回生の夏が終わった。次に顔を合わせたのは9月半ばの講義開始の時だったが、堀井の言った通り、その後一同が同じ時間同じ場所に会することはもはやなかった。
作品名:京都七景【第十九章】 作家名:折口学