小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

後架の蜘蛛

INDEX|1ページ/13ページ|

次のページ
 
表題 「後架の蜘蛛」

 曩時浦尻佑月は、過去からの逃れられぬ記憶に現在や未来に至るまで付き纏われ、平生であれば床に臥している時間帯において、ジワリジワリ湧いて来る希死念慮を模した不安の——過去の記憶の煮え滾るに苦しんでいた所、その刹那的な救助を深更のベランダの喫煙に見出した。
だが、斯様にして迎える朝日にようよう眠気を覚える佑月が室内に戻る時分というのは、上下階の人間の起き始める時間であり、即ち──言うまでもなく、自分以外の人間の日常の再始動を意味しよう。これが佑月には堪えるのである。人の生を意味する朝を己は終としているのに、これがどうして生きていると言えるだろうか。そう考えては、彼は幾度となく眠れぬ夜を過ごすのである。微睡みの中でようやっと夢の中へ逃げることの出来よう折に聞こえてくる鳥の囀り、そしてカーテンの隙間からの朝陽の幾筋──普通の人間であれば、これらは或いは気持ちよく朝を迎えてさせてくれようゴスペルに聞こえ、或いは天上の隙間から覗かせる後光の幾本に見えているに違いなかろうが、佑月にとっては、まるで小畜生にちくちくと何か小言を言われているかのような、平生の夜の寂蒔とは違う朝の稼働音が喧しくキュルキュルと鳴る錆びた歯車の囀り、それから彼の貧弱な皮膚を焼き裂く灼熱の光線、光の一筋一筋が鋭利な刃物のそれぞれかのようにしか見えないのだった。
そしてその深更の佑月は訪れた何度目かの偶の平静により今一度過去を俯瞰してみると、ここに帰結するまでの過程は宛ら逃れようのない運命の糸によって絡み取られた結果なのではないかと、あまりの人間自分一人の無能さ無力さとこの世の不条理に慄然とするのだ。つまり、いかに己が一般から逸脱——それも、決して天才という立ち位置ではない、真坂様に位する完全なる落第者、落ちこぼれとしているかを、再度確認する羽目と相成ったのである。宛ら、暗い深海のそこで息もせずに耐え続け、ようやっと水面まで上がって来られたかと思うと、そこは津波の激しく周りには何もない大海原のど真ん中であったことに気づいてしまった時のような、底知れぬ絶望。そうした思い出の浮上とは彼の脳裏に現れ、疾うに過ぎ去った過去を現在のものにする。なれば冥々としていた方がよっぽどマシだったと思うや否や、彼はその日もまた煙草と酒とに縋るのであった。
——泥に塗れてしまったたんぽぽの綿毛の堕ちるような、暗澹とした陽気に包まれていた。
曇天の夜空の僅かの星しか見えぬその下、裸眼の視力が三十センチ先も見通せぬ佑月をして綿毛を広げた光るたんぽぽと映る、県営マンションの電灯の碁盤の目のような並びが拡がっていた。佑月のいるベランダの向かいに三つ四つ連なる十五階建ての県営マンションの電灯がぽつぽつと蛍のように光っており、しかしその幾つかは灯っていなかった。空に見える星の少なさと相俟って、宛ら役目を終えた光るタンポポの空に昇って星となったようにも見えてこよう。だがそこに出来ている間隙の暗闇は佑月を恐怖たらしめた。
不意に縊り縄が垂れ下がっているかのような恐怖をもたらしめたのであった。が、それはあくまでも佑月の肚に眠る暗黒がそれによって呼応されただけに過ぎない。その間隙の暗闇は、光の中にあるのだったから。
——往時、佑月の家を拠点とした集会の帰りの付き添いで、中年の女が不図その県営団地を見て、昔殺傷事件があったらしいとの事を言い放った。雪の解け始める時期であったとは云い条、夜は七時でもすっかり更けていた。その夜道を母の手に連れられて歩く幼時の佑月は、はたと、もしその殺人犯が今現れようものなら、この面々では——祖母含めたこの四人だけでは殺されるのも容易であろうと、不安と恐怖とが頭を擡げてきた。無論、そんなことが起きうるはずもなく、徒に佑月の不安の苗床になったに過ぎなかったのだったが──。
その殺された者の怨念が、あの間隙の闇の中に囚われ、そしてその闇を見やる己は、寧ろその闇に覗かれているのではないかと思ったのだ。その往時の不安の種が、今芽吹いたのである。
その県営団地と佑月の住まう市営団地の間には県営のグラウンドがある。二辺の長い歪な六角形のそのグラウンドの端をなぞるようにして植えられた桜の木々は、春の日差しによれば絢爛華麗なものとなるが、夜になると春夏秋冬問わずその周囲に暗闇を落とす翳となり、それがニコチンと酒とに酔い茫然と虚空を見やる佑月の、その肚に巣食う闇と共鳴するには——そして県営団地に点在する闇夜が眼前の闇を伝い己の首目掛けているという過ぎた妄想を作り出すには、最適と相成った。
咄嗟──首元に悪寒を覚え、それがあの闇が己を縊り殺しにきたのだという恐怖によって、錯乱者のように首元を手で払うや、すぐと例の煩わしい高音の羽音が鼓膜を霞めた。
佑月の肚奥底に沈む不安が、またぞろの重みを増した。
恰も己の重さに耐えられなくなった己の腸が、腹筋と皮とを突き破りどろりと地べたに滑り落ちてゆく感覚であった。すると、それに食道や気管が引っ張られて、顔は上向きになり、更に落下してゆく内臓と脳味噌の重みが加重され、終ぞ脳味噌までもずり落ちてゆく。ただの人形とグロテスクなスライムに成り下がった己だったものは腐敗してゆき、それに蠅が群がり、蛆虫に喰われ、跡形もなく消える。——斯様な妄想が頭を過ると、いかな軟弱体格だとは言え、最低限支えてくれる己の躰に有難みを覚える。だが、その肚を突き破る内臓の感覚が、佑月の、平時の折ですら良くない胃の調子を更に悪くする。
佑月は肚に手を抱えて胎児のようにその場に蹲り、しかしその細胞分裂前の卵子のように丸まっているその状態から一本の腕が生えてきて、それが佑月の口に煙草を吸わせた。それから長嘆交じりに煙を吐くと、
(なんで俺、こうなってるんだ…)
と、肚の中で呟いた。——或いは、煙と共に口から漏れて出ていたやも知れぬが。
そう思うやすぐと結びつくのは、己の母や祖母が今迄さんざ施してきた教育という名の別なる何かで、それには曩の不安と恐怖が擡げていた胸中に打って変わり、憤懣や悲哀といったものが擡頭し始める始末。——彼はこれに、実に十数年もの間蝕まれ続けてきた。主人が死んでしまわぬ程度に胃を食い破り、それでいて五臓六腑を食らい尽くさず、それが再生されるまで待てる狡猾さをも兼ね備えている百足が、彼の肚に潜んでいるような感覚である。
──土台、ようよう二十歳にして正常に始動し始めたニヒリズムなぞ、寧ろその萌芽を嘆くべきであったのだ。
佑月の思い返す所、成人式後の同窓会にて久闊を叙した同級生たちの顔には自信が満ち溢れていた。それも、何も目的もなく渡海し、徒に約二年を費消したに過ぎぬだけの、己が優れた存在であると勘違いしていた佑月とは月と鼈で、その自信には確たる実績が——往年よりの学業が花開き、良いとこの大学に入学したという裏付けがあったのである。それに、大学三年生にもさしかかる頃の、大学生活にも慣れ切った、就活もしてもしなくても良い時期である大学二年生の、あの自信のある悠然とした立ち姿は眩しかった。
作品名:後架の蜘蛛 作家名:茂野柿