すり抜ける美と幻としての美
街を歩いていると、時折、名前も知らない誰かの姿が心に残ることがある。
「あれ、今の人……?」
視線を向けたときにはすでに通り過ぎ、雑踏に溶けていく。残されたのは、ほんの数秒のまばゆい印象だけだ。
美しさとは、案外こうした「すり抜ける瞬間」にこそ宿るのではないだろうか。長く見つめれば見つめるほど、現実のディテールが目に入り、生活の匂いや生身の人間らしさが露わになっていく。だが、一瞬で消えた美は、現実に縛られることなく、心の中で自由に理想化されていく。そこに立ち現れるのは「幻としての美」だ。
幻としての美は、実体のある“人”を越えて、私たちの心が見たいように描いたイメージだ。おぼろげな横顔の輪郭に、自分の理想を重ね、仕草の余韻に物語を託す。つまり、美は対象そのものよりも、むしろ「私がどう受け止めたいか」によって形づくられる。
このとき、美は「記憶に宿る美」として生き延びる。
人は、はっきり覚えていないのに「忘れられない人」を持つ。思い出すとき、顔の細部はあいまいで、声の響きも霞んでいる。それなのに、その存在感だけが強烈に心に刻まれている。曖昧であるがゆえに、記憶はかえって美を純化し、永遠に近いものとして保存してしまうのだ。
すり抜けた美しさは、実際には束の間の出会いにすぎない。
しかし、その一瞬が「幻」として私たちの心に棲みつき、やがて「記憶の美」として時間を超える。
真実の姿は、通り過ぎた誰かがただの日常を生きる一人の人であることだろう。けれど、私たちは無意識のうちに、その一瞬を特別なものに仕立て上げてしまう。
なぜなら、私たちは「美とは幻である」と、心の奥で信じたいのだ。
現実の人は時とともに変わり、年齢を重ね、遠ざかっていく。けれど、幻としての美は変わらない。記憶の中で理想化され、半ば夢のように漂い続ける。
だからこそ、美しい人との出会いは「今この瞬間」だけでなく、その後の人生を支える「記憶の贈り物」にもなるのだ。
作品名:すり抜ける美と幻としての美 作家名:タカーシャン