黄泉の夢
おかしな夢を見た。私は苦しくも寒くもなく、すとっとそこに立たされたような始まりだった。
私が立つのは赤土の荒野だ。だだっ広く、砂埃が立ち、前がよく見えない。だが、私が立っていたのは土の下の岩のようだった。土を削って一本道が作られている。ごつごつとしているのに、痛くはなかった。
周りを見回そうとして気付いたが、私は両手に酒瓶を持っていた。他にもあるか確かめようと思ったが、地面に酒瓶を置くのは躊躇われ、ポケットの中に違和感があるのを確かめて歩き出した。
段々と辺りにえもいわれぬ香が立ち、夢のような心地で、私はある門へ来た。
漆の剥げ放題の黒い門が、荒野にぽつねんと立っている。鳥居のように笠木はあったが、他に取り立てて言う事も思いつかなかった。
薄気味悪いがちょっと好奇心があったので、私は悠々門に近付く。すると、脇から大きな何かが飛び出してきた。
それは、かなりの大蛇だった。麗しく光る緑の背中に、真っ白な腹がちらりと見え、それが両腕で抱え切れない程太いのだ。おまけに長い。そいつが私に向かって鎌首を持ち上げ頭を振り回した。
驚いた私は酒瓶で叩こうとしたが、その時蛇がぴたりと止まり、ちろちろっ、ちろちろっと真っ赤なリボンのような舌を出す。
訝しいながらも、私は恐る恐る酒瓶の栓を抜いた。すると蛇は懐くように私の足元へずるずると這い、頭を下げてくる。
ますます薄気味悪くなったが、仕方なく片手にあった酒は蛇へ渡した。
門をくぐってからは、突然私の左右に様々な人が現れた。
「荷を下ろせ。余の宴へ来い」
ある人がそう言い私を呼び止める。ざくっと半分に切ったようにこちらから丸見えの部屋だったが、どうやら古い武家のような部屋に住んでいるらしい。
侍は畳の上へ脇差を置いたまま話をするので、私は怖くなり「すみません、通るだけです」と言い、歩みを進めた。
「そをこなたへおこせ。我と飲まん」
振り向くと、雅やかな御簾の手前に座った男性が居た。その男性はへんてこな焼き網の上へ魚を乗せている。魚はもう食べ頃なのか、ぷちっ、ぷちっと脂の弾ける音がしていた。ああ、いい匂いだ。
しかし、先程酒のお陰で蛇から助かったのを思い出し、私は「申し訳ございません。また今度に…」と立ち去った。腹は減っていなかったが、私がそこを離れ切るまでは、風に乗って魚の脂が追いかけてきた。
あらゆる人間が私を呼び止め、皆食べ物を勧めたり酒を欲しがったりする。私は意地になって断り続けた。〝早く奥へ行かねば〟と念じていたからだ。
すると行く手へ雑木林の入り口が現れた。そこには、背の曲がった小さな爺が立っている。
爺は痩せており、粗末な着物で、髷はほつれ切っていた。しかし、がさがさの肌は細く小さな筋肉がしっかりと跳ね返している。手に持った鎌をぱたんぱたんと叩き、爺は私を睨みつけて笑った。
「ひょっひょっひょっ。妙な者がおる。腕を落とすわい。煮て喰ろうたら旨かろ、旨かろ」
酒瓶を差し出してみたが、爺は地面へ痰を吐いて見せる。そして、頭を搔くのか爺が鎌を片手へ持ち直した時、私は走り出した。
「こりゃーっ!」
恐ろしくて堪らなかったが、爺の横を素早く走り抜け、雑木林の草が足に引っ付き出してからは、森の奥へ奥へ走り抜けた。
誰も居ない。獣や鳥も、その森には一匹たりとも居ないようだった。風が頬を撫でもしない。ずずんと背にのしかかる静けさだった。
ちゃんと前へ走れていたかと右左を見やると、左側に地蔵が立っていた。線香が手向けられている。地蔵の後ろに、小さな苔むした石碑が立てられていた。
私は地蔵へ近寄り、供える物を探した。酒瓶をとも思いついたが、そうすれば帰れないかもしれない。帰らないで寝泊まりは出来なさそうだしと、ちょっと迷った。
何か他にないかとポケットを探ると、真っさらの饅頭がそのまま入っていた。走ったので半分ひしゃげていたが、それを地蔵の足元へ置いて頭を下げる。
やる事がなくなったので私は地蔵の後ろにあった石碑を読もうとした。小さな石碑はほぼびっしりと苔で覆われ、字も削れている。腰を屈めて覗き込むと、ぼんやり仮名文字で読める所があった。
「ふりむけば」とあった。
その字を読んだ時、なぜかは分からないが、ぞぞぞと寒気がした。体がいぼ地蔵になったみたいに、全身の肌が粟立つ。体の奥で私が囁く。
〝これは出来ないであろう、出来なくば私は…〟
足が震え出す。後ろへ駆け出したいのに、怖くて出来ない。しかし、やらねば私の身はどうなるか分からないのだ。それが恐ろしくて堪らなかった。
足がかくかくと震えていたのが、じりじり背中に這い上がる。ビリッと首筋に痛みが走った時、一目散に後ろへ駆け出した。
途端、ゴワゴワゴワと轟音がした。後ろから、おびただしい数の人間の蠢く音がする。雑木林の筈が、後ろが骸の海なのが解った。その海が、私に迫る。ゴワゴワゴワゴワゴワと、私目掛けて四足で走っている。骸の立てる土埃が私の鼻を掠める。
後ろからは艶やかな女の声もした。
「お待ちなさぁい、お待ちなさいよぅ」
千万もの骸の足音と、甘い香。
走っている足が酷く痛む。腹が減った。怖い。ああ、怖い!そう思った時、私の足元から、懐かしい声がした。
「置いてかないでよ、連れて帰って」
それは母の声だ。いいや違う。間違いなく母だが、母ではない!私がこんな目に遭っていて、母が見逃すか!
「どうしたの?母さんを置いていくなんて…」
私は全速力で走り続けているのに、息も切らさず母の声が囁かに追いかけてくる。でも、微かに別の声が聴こえる。それも母だった。
〝お逃げ、どうか逃げて〟
声はそれを涙声で絞り出す。余っ程振り向きたくなったが、私は何度も首を振り、漆の剥げた門が見えると酒瓶の口を開け、前へ投げつけた。