ガラスの妖精とダイヤの小径
『ガラスの妖精とダイヤの小径』
それは、ある夕暮れのステンドグラスの街角だった。
斜めに差しこむ光が、色とりどりの破片を舗道にこぼす。
その光の中に、ひときわ眩しい――
ダイヤを抱えたミニドレス姿の少女が立っていた。
「……あなた、ガラスの国から来たの?」
問いかけた声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
少女は微笑む。
透明な羽が、ほんの一度だけ震えた。
その瞬間、空気がゆらぎ、
わたしは色の粒でできた道に立っていた。
すべてが透きとおり、光でできている。
そこは、人間が忘れてしまった”メルヘンの国”。
ここから先、戻る道はない――
そう告げるように、ガラスの妖精は、
私の手をとった。
〈黒い月のプロローグ〉
ステンドグラスの光が、夜の底に沈みかけていた。
街灯が一つ、また一つと息を引き取り、
通りは黒い月の影に支配されていく。
その影の中に、ひとすじの白い煌めき。
ミニドレスの少女――いや、あれは少女ではない。
ダイヤの瞳を持つ、ガラスの妖精。
笑っているのか、警告しているのか、
その表情は、欠けた月のように読めない。
「光を欲しければ、影も飲み込むことになるわ」
妖精の声は、冷たい水晶を砕いたように響く。
足元に、色の破片でできた道が現れた。
一歩踏み出すたび、靴底から冷たさが這いあがる。
振り返れば、街も家も、自分の影さえも消えていた。
残ったのは、光の道と、
闇の奥でこちらを見つめる、
無数の砕けたガラスの瞳だけ――。
〈契約の儀式〉
道の果てに、光の塔がそびえていた。
けれど近づくにつれ、それが塔ではなく、
無数のガラス片を寄せ集めた巨大な棺であることに気づく。
棺の中には、月明かりを飲み込んだ闇が渦巻いていた。
その縁に立つガラスの妖精は、
ダイヤの瞳をこちらに向け、
指先で自分の唇をなぞった。
「契約は、口づけで封じるの」
声は甘く、しかし刃のように鋭かった。
彼女が差し出したのは、
色とりどりの破片でできた小さなグラス。
その中の液体は、赤でも青でもない――
見たことのない、光を吸い込む“無色の闇”。
「これを飲めば、
あなたの影は永遠に私のもの。
代わりに、光のすべてをあげる」
わたしの喉は渇き、
胸の奥で何かが疼いた。
躊躇した瞬間、
妖精はそっと近づき、耳元で囁く。
「影を失った人間は、もう戻れないわ。
でも――戻りたいと思う心も、消えてしまうの」
グラスが唇に触れたとき、
世界の色が、一つ、また一つと消えていった。
〈影の代償〉
無色の闇を飲み干した瞬間、
胸の奥で小さな鐘が鳴った。
それは祝福の音か、それとも鎮魂の合図か――判別できなかった。
視界がきらめき、
全身の骨がガラスの糸に編み替えられていく感覚が走る。
皮膚は透明になり、血管が光の細い川のように浮かび上がる。
息を吸うたび、肺の奥で鈴の音が鳴り、
吐く息は冷たい霧となって消えた。
足元を見たとき、わたしは凍りついた。
――影がない。
どこを探しても、わたしを形どる黒い影は存在しなかった。
「影は、あなたの“忘れたいもの”の記憶でできている」
ガラスの妖精は囁き、
わたしの影を手のひらの中で小さく丸めた。
それは黒い真珠のようで、
見るほどに懐かしい声や、名前や、涙が封じ込められているのが分かった。
「代償は、記憶の消失。
あなたはもう、誰を愛していたか思い出せない」
その言葉とともに、胸の奥で何かがぽっかりと抜け落ちた。
痛みはない。
ただ、温度のない空虚だけが残った。
「ようこそ――影を持たぬ光の住人へ」
妖精が微笑んだ瞬間、
わたしの瞳は砕けたダイヤのように光を放った。
〈旅立ちと最初の試練〉
光の塔を離れると、道は無音の森へと続いていた。
木々はすべてガラスでできており、
枝が風に揺れるたび、冷たく澄んだ音が夜に散った。
わたしの足音は消えていた。
影を失った者は、地面に痕跡を残せないらしい。
歩いているのに、まるで夢の中を漂っているようだった。
森の奥、
一枚だけ黒く曇ったステンドグラスの扉が立っていた。
その中央には、見知らぬ紋章――
砕けた月と、封じられた眼。
近づくと、低く囁く声が響く。
「影を返す代わりに、ひとつ置いていけ」
扉の向こうから現れたのは、
羽を折られたガラスの狼だった。
その瞳は深い琥珀色で、
見つめられるだけで、心の奥の秘密を覗かれるような感覚が走る。
「置いていくのは“名前”だ」
狼の声は低く、鋭く、逃げ道を与えなかった。
「名を失えば、過去の誰もお前を探せない。
だが、影を取り戻す道は開く」
わたしは唇を噛んだ。
名前を失うことは、存在が薄れることと同義。
だが、影を持たないままでは、
光の中で永遠に空虚な笑みを浮かべ続けるだけ。
――決断の時が来ていた。
〈名前を捨てる夜〉
琥珀色の瞳が、わたしの心を釘のように打ち抜く。
狼は動かない。ただ、待っている。
わたしの名前――この世界での唯一の輪郭を、手放すその瞬間を。
「……もし、名を失ったら、私は何になるの?」
問いは震えていた。
狼は、淡く笑ったように牙を見せる。
「名を持たぬ者は、風の器だ。
誰かが何かを満たせば、それが“お前”になる。
だが、空のまま歩けば、真実を掴むこともできる」
迷いは、長く続かなかった。
影を取り戻すためなら、空になることも厭わない――
そう思ってしまった時点で、もう答えは決まっていた。
「……持っていきなさい」
名前を口にした瞬間、
それは冷たい光の蝶に変わり、
狼の喉奥へ吸い込まれていった。
胸の奥が、一度だけ大きくえぐられる。
息をしているのに、空気を掴めない。
「契約は完了だ。――行け」
狼が前足で扉を押し開く。
〈扉の向こうの異界〉
扉の向こうには、空がなかった。
代わりに、頭上いっぱいに広がるのは、
無数の割れた鏡。
その一枚一枚に、知らない自分の顔が映っている。
赤い瞳のわたし。
泣き笑いするわたし。
ひび割れた肌を持つわたし――。
足を踏み入れた途端、
鏡の破片が降り注ぎ、肌に触れるたび、
見知らぬ記憶が流れ込んでくる。
愛したことのない人の笑顔。
辿ったことのない道の景色。
そして、
影を持って歩くもうひとりのわたしの姿――。
その時、頭上の鏡の一枚が低く唸り、
裂け目から、黒い手が伸びてきた。
指先は細く、冷たく、
まるで影そのものが実体を持ったかのようだった。
「……返してやろうか? お前の影を」
声は甘く、深淵の底から響いていた。
〈深淵の交渉〉
黒い手は、わたしの喉元で止まった。
冷たい指先が、皮膚の下にある“光”の脈動を探るように動く。
「影を返すのは簡単だ。
だが、その代わり――お前の光をもらおう」
わたしは息を呑む。
光、それは契約と引き換えに手に入れた唯一の力。
名前を失った今、光まで失えば、
この世界でわたしはただの空洞になってしまう。
「光を失えば、影は戻る。
けれど、その影は、お前が知っていたものとは限らない」
影の声は、まるで静かな湖に毒を垂らすように甘く響く。
それは、ある夕暮れのステンドグラスの街角だった。
斜めに差しこむ光が、色とりどりの破片を舗道にこぼす。
その光の中に、ひときわ眩しい――
ダイヤを抱えたミニドレス姿の少女が立っていた。
「……あなた、ガラスの国から来たの?」
問いかけた声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
少女は微笑む。
透明な羽が、ほんの一度だけ震えた。
その瞬間、空気がゆらぎ、
わたしは色の粒でできた道に立っていた。
すべてが透きとおり、光でできている。
そこは、人間が忘れてしまった”メルヘンの国”。
ここから先、戻る道はない――
そう告げるように、ガラスの妖精は、
私の手をとった。
〈黒い月のプロローグ〉
ステンドグラスの光が、夜の底に沈みかけていた。
街灯が一つ、また一つと息を引き取り、
通りは黒い月の影に支配されていく。
その影の中に、ひとすじの白い煌めき。
ミニドレスの少女――いや、あれは少女ではない。
ダイヤの瞳を持つ、ガラスの妖精。
笑っているのか、警告しているのか、
その表情は、欠けた月のように読めない。
「光を欲しければ、影も飲み込むことになるわ」
妖精の声は、冷たい水晶を砕いたように響く。
足元に、色の破片でできた道が現れた。
一歩踏み出すたび、靴底から冷たさが這いあがる。
振り返れば、街も家も、自分の影さえも消えていた。
残ったのは、光の道と、
闇の奥でこちらを見つめる、
無数の砕けたガラスの瞳だけ――。
〈契約の儀式〉
道の果てに、光の塔がそびえていた。
けれど近づくにつれ、それが塔ではなく、
無数のガラス片を寄せ集めた巨大な棺であることに気づく。
棺の中には、月明かりを飲み込んだ闇が渦巻いていた。
その縁に立つガラスの妖精は、
ダイヤの瞳をこちらに向け、
指先で自分の唇をなぞった。
「契約は、口づけで封じるの」
声は甘く、しかし刃のように鋭かった。
彼女が差し出したのは、
色とりどりの破片でできた小さなグラス。
その中の液体は、赤でも青でもない――
見たことのない、光を吸い込む“無色の闇”。
「これを飲めば、
あなたの影は永遠に私のもの。
代わりに、光のすべてをあげる」
わたしの喉は渇き、
胸の奥で何かが疼いた。
躊躇した瞬間、
妖精はそっと近づき、耳元で囁く。
「影を失った人間は、もう戻れないわ。
でも――戻りたいと思う心も、消えてしまうの」
グラスが唇に触れたとき、
世界の色が、一つ、また一つと消えていった。
〈影の代償〉
無色の闇を飲み干した瞬間、
胸の奥で小さな鐘が鳴った。
それは祝福の音か、それとも鎮魂の合図か――判別できなかった。
視界がきらめき、
全身の骨がガラスの糸に編み替えられていく感覚が走る。
皮膚は透明になり、血管が光の細い川のように浮かび上がる。
息を吸うたび、肺の奥で鈴の音が鳴り、
吐く息は冷たい霧となって消えた。
足元を見たとき、わたしは凍りついた。
――影がない。
どこを探しても、わたしを形どる黒い影は存在しなかった。
「影は、あなたの“忘れたいもの”の記憶でできている」
ガラスの妖精は囁き、
わたしの影を手のひらの中で小さく丸めた。
それは黒い真珠のようで、
見るほどに懐かしい声や、名前や、涙が封じ込められているのが分かった。
「代償は、記憶の消失。
あなたはもう、誰を愛していたか思い出せない」
その言葉とともに、胸の奥で何かがぽっかりと抜け落ちた。
痛みはない。
ただ、温度のない空虚だけが残った。
「ようこそ――影を持たぬ光の住人へ」
妖精が微笑んだ瞬間、
わたしの瞳は砕けたダイヤのように光を放った。
〈旅立ちと最初の試練〉
光の塔を離れると、道は無音の森へと続いていた。
木々はすべてガラスでできており、
枝が風に揺れるたび、冷たく澄んだ音が夜に散った。
わたしの足音は消えていた。
影を失った者は、地面に痕跡を残せないらしい。
歩いているのに、まるで夢の中を漂っているようだった。
森の奥、
一枚だけ黒く曇ったステンドグラスの扉が立っていた。
その中央には、見知らぬ紋章――
砕けた月と、封じられた眼。
近づくと、低く囁く声が響く。
「影を返す代わりに、ひとつ置いていけ」
扉の向こうから現れたのは、
羽を折られたガラスの狼だった。
その瞳は深い琥珀色で、
見つめられるだけで、心の奥の秘密を覗かれるような感覚が走る。
「置いていくのは“名前”だ」
狼の声は低く、鋭く、逃げ道を与えなかった。
「名を失えば、過去の誰もお前を探せない。
だが、影を取り戻す道は開く」
わたしは唇を噛んだ。
名前を失うことは、存在が薄れることと同義。
だが、影を持たないままでは、
光の中で永遠に空虚な笑みを浮かべ続けるだけ。
――決断の時が来ていた。
〈名前を捨てる夜〉
琥珀色の瞳が、わたしの心を釘のように打ち抜く。
狼は動かない。ただ、待っている。
わたしの名前――この世界での唯一の輪郭を、手放すその瞬間を。
「……もし、名を失ったら、私は何になるの?」
問いは震えていた。
狼は、淡く笑ったように牙を見せる。
「名を持たぬ者は、風の器だ。
誰かが何かを満たせば、それが“お前”になる。
だが、空のまま歩けば、真実を掴むこともできる」
迷いは、長く続かなかった。
影を取り戻すためなら、空になることも厭わない――
そう思ってしまった時点で、もう答えは決まっていた。
「……持っていきなさい」
名前を口にした瞬間、
それは冷たい光の蝶に変わり、
狼の喉奥へ吸い込まれていった。
胸の奥が、一度だけ大きくえぐられる。
息をしているのに、空気を掴めない。
「契約は完了だ。――行け」
狼が前足で扉を押し開く。
〈扉の向こうの異界〉
扉の向こうには、空がなかった。
代わりに、頭上いっぱいに広がるのは、
無数の割れた鏡。
その一枚一枚に、知らない自分の顔が映っている。
赤い瞳のわたし。
泣き笑いするわたし。
ひび割れた肌を持つわたし――。
足を踏み入れた途端、
鏡の破片が降り注ぎ、肌に触れるたび、
見知らぬ記憶が流れ込んでくる。
愛したことのない人の笑顔。
辿ったことのない道の景色。
そして、
影を持って歩くもうひとりのわたしの姿――。
その時、頭上の鏡の一枚が低く唸り、
裂け目から、黒い手が伸びてきた。
指先は細く、冷たく、
まるで影そのものが実体を持ったかのようだった。
「……返してやろうか? お前の影を」
声は甘く、深淵の底から響いていた。
〈深淵の交渉〉
黒い手は、わたしの喉元で止まった。
冷たい指先が、皮膚の下にある“光”の脈動を探るように動く。
「影を返すのは簡単だ。
だが、その代わり――お前の光をもらおう」
わたしは息を呑む。
光、それは契約と引き換えに手に入れた唯一の力。
名前を失った今、光まで失えば、
この世界でわたしはただの空洞になってしまう。
「光を失えば、影は戻る。
けれど、その影は、お前が知っていたものとは限らない」
影の声は、まるで静かな湖に毒を垂らすように甘く響く。
作品名:ガラスの妖精とダイヤの小径 作家名:タカーシャ