Clincher
机の上へ広げた問題集に取り組む、小学生の女の子。そう言ってしまえば普通の範疇を超える要素は何もないのだが、いくら人間が左右対称じゃないにしても、問題を解いている間にここまで傾くものだろうか。私がその角度を真似て首を傾けながら様子を窺っていると、机に縋りつくように斜めになりながら図形問題と向き合っていた佳純ちゃんが、パッと顔を上げた。
「できた……。あっ、もう一回見直すから、待って」
また斜めに戻った佳純ちゃんを見守る私は、いわゆる家庭教師。『太田進学』という学習塾のアルバイトで、自宅学習を希望する家庭に派遣されている。太田進学は小学校高学年から中学校三年生までが対象で、公立大学に通う量産型女子大生の私はとりあえず、偉そうにできる小学校高学年を受け持っている。担当している室田佳純は、七人いる進学Sコースの中でトップの成績。彼女は今どき珍しく、スマートフォンやパソコンといった電子機器を持っていない。母親曰く、学校で活発に友達を作るタイプではなく、ひとり遊びが好きな性格らしい。
五年生の終わりから先週まで担当していた勝野先輩からの引継ぎは、『ふとした拍子で飽きられたら終わり』という、何の対策にもならないひと言。彼女の分析によると、佳純ちゃんは最初こそ社交的に振舞うが、根本の性格は気難しく、信用に値すると判断した相手以外には、コミュニケーションを全く取らない。そういうわけで、どんな理由で勝野先輩が『信頼を失った』かはさておき、代わりの担当は晴れて私になった。六年生になって佳純ちゃんの難しさはパワーアップしていそうな感じもするけど、週三回授業のペースで二ヶ月半が経過した今のところは、順調だ。でも、勝野先輩のときも最初の二ヶ月は普通だったらしいから、私もまだ『合格』したとは言えない。
とりあえず今のところ、佳純ちゃんは普通の女の子だ。問題が解けなかったらいじけるし、解けたら嬉しそうに微笑む。その反応は素直すぎるぐらいで、どちらかというと、元カレからのストーカー被害に困っている二十歳の私の方が、普通じゃないのだろう。流れで一ヶ月ほど半同棲状態になったのが、まずかった。あんな人だと分かっていたなら、鍵を替えてから別れ話をするべきだった。
ゼミの友人が『調べときなよ。念のため、盗聴器とか』と言ってくれなかったら、本当に危なかった。少なくとも、去年の暮れに別れてから今日までの半年間、私の生活はコンセント裏の盗聴器を通じて、あの男に筒抜けだったのだから。盗聴器発見センサーはそれなりに値が張ったけど、それ以上の効果があった。ただ、それ以来センサー自体が手放せなくなって、鞄の中に常に入れておかないと落ち着かなくなってしまった。これが手の届くところになかったらと思うと、それだけで呼吸が浅くなる。
「できた」
佳純ちゃんが救いの手を差し伸べるように、再び顔を上げた。私は表情を『どれどれ』に切り替えてから、目を合わせた。佳純ちゃんは顔を引いて、自信に満ちた表情で付け足した。
「ほんとにできたよ」
「それは疑ってないよ」
ひと目見て正解していることが分かったが、佳純ちゃんは算数はあまり得意じゃない。おそらく、本当の得意分野は五科目で表現できない。勉強の得意不得意ではなく、頭の回転が速いのだ。強いて言うなら、国語が得意ということになる。漢字は中学生顔負けの知識があるし、文を読むのも早い。ただ、一般的に用意される設問は大抵、佳純ちゃんの得意分野をことごとく外す形で出題される。例えば、ここで主人公がこう思ったのは何故か、とか。
「正解です。見直して変えたところも、ちゃんと合ってるよ」
佳純ちゃんは、私がそう言ったときの表情をじっと見つめた後、首を傾げた。
「凝ってる?」
「私? 肩凝りとかは全くないよ。むしろ、くすぐったくて笑っちゃうぐらい。佳純ちゃんこそ、肩とか背中が凝ってるんじゃない? 休憩しよっか?」
「うん。でも、サーナは絶対凝ってそう。息のつき方で分かる」
井佐尚子という私の名前から真ん中の二文字を引き抜いて、サーナ。佳純ちゃんのあだ名をつけるセンスは独特で、頭の高速回転は休憩時間にその本来の威力を発揮する。私はわざと鼻息を荒くすると、言った。
「息が凝ってるの? そんなことある?」
「わたしがそうだもん」
佳純ちゃんはそう言うと、退屈そうに問題集を見つめた。
「そうなんだ。肩とかじゃなくて?」
私が言うと、佳純ちゃんは首をすくめながら上半身を捩った。
「うん。肩とか、触られたら死ぬ自信ある」
「そんな自信、持たなくていいって」
私が言うと、佳純ちゃんは何かまだ言いたいことがありそうだったけど、目を伏せて笑った。今のは答えを間違えたのか、どっちなんだろう。伸びをしてから次の問題にとりかかった佳純ちゃんの頭頂部を眺めながら、勝野先輩からの引継ぎがもうひとつあったことを思い出した。それは『家』だ。移動していいのは、玄関、廊下、佳純ちゃんの自室の三か所のみ。授業終わりに、佳純ちゃんが庭に生えているみかんの木を見せてくれたとき、後からついてきた母親に怒られたのだという。それから佳純ちゃんは『難しく』なり、二回ほど授業を続けた辺りで勝野先輩はお役御免になった。
だから、誘われても庭に出てはいけない。改めてそう戒めたとき、佳純ちゃんが顔を上げた。
「できた」
見てすぐに、間違いに気づいた。割り算の余りを書き忘れている。
「これは、割り切れないよ」
こんな簡単な問題を間違うのは、らしくない。でも、佳純ちゃんは納得がいかない様子で、細い眉をしかめた。
「あれー? 絶対、割り切れると思ったのに」
こんな単純な割り算で余りがないなんて、間違える方が難しい。何度か計算しなおして、ようやく諦めがついたように答えを書くと、佳純ちゃんはふうと息を吐いた。私は同じように息をつくと、言った。
「弘法も筆の誤りってやつだな」
「そんな偉くないし」
佳純ちゃんは何故か誇らしげに言うと、気合いが入り直したみたいに目をくわっと見開いた。そして、いつもの斜めに傾いた集中モードへ移行し、残りの三十分はすぐに過ぎ去った。
授業が終わり、母親と並んで立つ佳純ちゃんに見送られた私は、外に出てから家を振り返った。室田家は結構大きく、佳純ちゃんの部屋は二階にあるが、向かいにもうひとつ、同じぐらいの広さの部屋があるように見える。そっち側の窓は真っ暗だから、外から見たら家の二階が半分停電しているみたいで、変な感じだ。
前に向き直ったとき、ちょうど向かい合わせになっている家から出てきた人と目が合い、私は会釈をした。駅までの道を歩いていると、足音が少しずつ加速して追いつき、さっきの人が私の肩をぽんぽんと叩いた。
「室田さんのところで、家庭教師してらっしゃるの?」
綺麗にめかしこんだ老婦人で、私が営業スマイルで名乗って挨拶すると、老婦人は西田と名乗った。
「井佐さん、礼儀正しいのねえ。アルバイトってことは、大学生の方?」
「はい、二年生です」
西田さんは『まあ』と光り輝くリアクションをすると、駅まで続く商店街の中を並んで歩きながら、本題に入った。
「室田さんのお嬢さん、大丈夫そう?」
「佳純ちゃんですか? いい子ですよ」