嵐
降りしきる雨の中で、私は考えた。
濡れそぼつ服、体は冷え、足の指の感覚はなくなりつつあり、手の凍てつく痛みが依然指の感触を保つ唯一だった。大雨の中、台風が捻出した、或いは置き土産にとおいていったような、小さき嵐、子どもの嵐のような、風は強く、しかし歩いてゆけぬ程でもなく、雨は激しく、しかし人間の冷え切った身体をそのまま凍死させる程でもなく、夜は深く、しかし、十キロを人間歩かせられ、傘を台無しにする程度で、凍えながらでも生き延びられる程度には、小嵐は弱く、故に強かった。
私は、なぜかような事をしているのだろう、濡れながら考えていた。こんな寒いのに、どうして私と云う人間は、たった一人の好きな人間の為にこんなことが出来て、どうしてその人間は私の事を見向きやしないのに、私の事を見向かせるのだろう。私は、どうして私の事を見向きもしない人間の為に、その人の為を想えるのだろう。
私はその人の為をしたはずなのに、どうして私は何もせずに帰途についているのだろう。そして、私はどうしてこんなところにいるのだろう。
既に疲弊しきっていた。
事の始まりは、その人間の送ってきたひとつのメールだった。
——もう死にたい——
そう一文だけかかれたメールに、私は矢も楯もたまらず、深更二時、ジャケットを羽織って、家を飛び出た。春の始まりは、昼だけだった。夜の三月は、まだ冬の側面を見せていた。かてて加えて、雨が降りしきっていた。これでは自転車で彼女の家まで行けない、だが、バスも電車も、こんな田舎ではタクシーすらもない。風も強かった。春の擡頭を、その冬は遮るようにして吹きすさび、木枯らしの鳴く音が聞こえていた。これでは自転車を使えない、使えない理由が二つになった。どうしたものかと思案するも、元より方法は一つしかなかった。——歩いて向かうしかない。
私は歩いた。彼女の家まで十キロあった。だが、そんなものは関係なかった。向かわなくてはならない。これは、どうせ若気の至りとなるのだから、そう己を鼓舞した。
家を出て、十分も経った所で、送っていたメールの返事が来た。私は、今から向かうとの旨のメールを送り、そしてそれが返ってきたのだった。だが、来るな、とそう書かれただけで、それ以上は何もなく、何もないからこそ、私は彼女が今まさに首に縄をかけ、今生の別れの言葉——そして、私を慮って、己の遺体を曝したくない、私のトラウマになりたくないのだと思った。
五分前には、既に靴の中に水たまりが出来ていた。まだ、痛いという感覚があった。小指は元より鈍感だったが、既に感覚はなかったのかもどうかも分からなかった。
返事は来なかった。私は歩くしかなかった。深更二時、私は彼女の家まで歩くより他、何も目的はなかった。早く返事が来て欲しいと思ったのは、私が住宅街の出口まで来ていて、大通りが目の前にあったからだ。この大通りを真っ直ぐ歩いてゆくと、彼女の家の近くまで行ける。この大通りを只管に真っ直ぐ行けば着いてしまう。——私には迷いがあった。
本当に心配はしているけれど、まさか死にやしないだろう。この道を登ってしまったら、私は引き返せなくなると確信していた。何故かは分からないが、この道を只管行けばついてしまうだけではない、直感があった。これを行ってしまったら、多分、というか十中八九行き切ってしまう。私はそういう性格だ。私は、一度決めてしまったことを曲げられない性格なのだ。それが仮令間違いだと途中で気づいても、私のプライドはやり抜き通すことを優先してしまうのである。だから、今ならまだ間に合う。私はその大通りの一歩手前の細道で、携帯をじっと見ながら、只管その人間からメールが来るのを待った。動いていないのに、いや、動いていなかったからか、風の勢いが増したのか、このままアイス棒のように直立したまま、内臓だけ凍ってしまいそうだった。このまま死んだら、翌朝なんて言われるのかな、なんていう思考も過った。——私はまだ若かった。
だが、返事は来なかった。もう、家を出て二十分経っていた。ズボンの裾が雨を吸い切り、常より重たくなっていた。
行くか、行くしかない。私の頭は、先の悪い予想が優先していた。やはり、今頃彼女は首を縊り、死んでしまっているかもしれない。或いは、カッターで己の手首を切り、勢い余って頸動脈まで届いてしまって、その溢れる血の量の多さに、生を渇望しだしているのかもしれない。——とにかく、私は彼女が大丈夫だというまで、私は心配し続けるより他、彼女を想いやれることが出来なかったのである。
深更二時半、車の通りが多いのは昼間だけの大通りは、しかしそれでも時折車が通る。全体の数こそ少ないが、主にトラックがその大半を占めていて、おかげで私は何度も車輪の弾く道路の水たまりを頭からかぶった。等間隔に並ぶ暖色の電柱如きの光量では、その小嵐と相俟ってどの辺に水たまりがあるか判別し得なかった。かてて加えて、トン単位のトラックの大きく眩しいライトに道路が当てられていないと分からず、土台雨と風と長距離とで疲弊し、まだ二キロも歩いていない己は体力を温存せねばならなかったから、避けるのに使う体力は勿体ないと思ったのだった。せめてもの抵抗として、飲んではやらぬと閉口したままだった。
深更二時四十五分、私は、その大通りの四分の一を認めると、ここまで来たのならば今引き返しても、その想いが届くだろうと思った。依然、連絡はなかった。いや、するとやはり行かねばならない。少なくとも、自分が行くと決めてしまったのだから。たとえ、これが最善の手ではなかったとしても、そしてこれがただ無駄な労力と終わってしまっても、若気の至りで済ませられる歳でよかったと心底思った。そして同時に、何度も送っていたメールに目を通し、早く返事が返ってこないものか、心底願った。二、三週間切っていなかった足の親指の爪が、片方割れただろうなと思った。
そして、その数分後、その人間から返事が来た。丁度、高架下を通過するところだった。ここが恐らく最後の引き返しポイントだと思った。ここで引き返せば、まだ大丈夫だ。ここで引き返せたら、私はまだ大丈夫だ。何が大丈夫なのか分からなかったが、とかく返事が来て、今高架下にいて、これで大丈夫だと思った。
——大丈夫だから、来ないで——
メールにはそれだけ短く書かれていた。
よし、これで大丈夫だ。これで帰れる。これで帰れる。
これで帰れる? 私は己を疑った。これで帰れる、と云う事は、私は初めから帰るつもりで猛然と家を飛び出して、雨の中を歩いて、風の吹きすさぶに抵抗し、小嵐の夜の凍えるを耐えたと云うのか。つまり、恰好だけ彼女を助けるふりをして、私は実は私が一番助けられたかったのだろう。いや、私の心配するフリを、とっとと終わらせてしまいたかったのだろう。その為の、大丈夫。その、大丈夫が欲しかった。私の、茶番を早く終わらせてくれと、大丈夫を待っていた。——私は、その人間の事を一切心配していなかったのだろう。
だが、私は運が良かった。私は、もう既に半分まで辿り着いていた。これから家に帰るにも半分、向かうにも半分、同じ半分ならば、そして、私のこの想いを本物へ変えるには──もう言わずとも知れていた。