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タカーシャ
タカーシャ
novelistID. 70952
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「きみと、わたしの間にあるもの」 ― 見る・離れる・許す・待

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連作エッセイ 第1話

「見るということ」

――近づくことで、かえって見えなくなる

人をよく知るには、近づけばいい――
かつて、そう信じていた時期があった。
目を見て、心をのぞき、もっと深く関われば、
きっとその人の魅力がわかると思っていた。

でもあるとき、気づいてしまった。

近づけば近づくほど、
見えてくるのは“魅力”よりも、“違和感”や“欠点”ばかりだった。
たとえば、あの人の言葉の癖。
不器用な間の取り方。
些細な場面での態度。
それまで気にもしなかったことが、目について仕方がない。

まるで、絵画を至近距離で見ているようだった。

筆のタッチの荒さ、塗り残し、意図の読めない線。
あんなに素敵だと思っていた絵が、
急に「下手」に思えてくる。
「こんなものだったのか」と、がっかりする。
でもそれは、本当に“その人”を見ているのだろうか?

ある日、ふと思い立って、
その絵から一歩、二歩と下がってみた。

すると――
色と色が調和し、光と影がバランスをとっていて、
全体が美しく、深みをもって浮かび上がってきた。
「ああ、これが本当の姿かもしれない」
そう思った。

人も、同じだった。

近づきすぎて見えなくなっていた全体像。
一歩引いて、少し距離をとったとき、
その人の存在が、輪郭をもって見えてきた。
不器用も、言葉足らずも、全部ふくめて
「この人らしさ」だったんだと、やっと思えた。

星だって、そうだ。
空のすぐそばで見れば、
ただのガスの塊にすぎない。
でも、地球から離れた距離で見ているからこそ、
星は星として、輝いて見える。

人間関係もきっと同じ。

“知る”ことは、“近づく”ことじゃなく、
“距離を含めて見守る”ことなのかもしれない。

きみを、どこから見るか。
その場所ひとつで、
好きも、嫌いも、見え方が変わる。

だから私は、
見ることに、少し慎重でいたい。
知りすぎず、無関心にならず、
ただ静かに、まなざしを向けていたい。

それが、きみの魅力をほんとうに見るということだと
今なら、わかる気がする。




連作エッセイ 第2話

「離れるということ」

――離れることは、終わりではない

「ごめん、しばらく距離をおきたいんだ」
その言葉を告げたとき、
自分でも、自分が冷たくなったような気がした。
でもそれは、どうしても必要な選択だった。

離れることは、終わりではない。
けれど、私たちはつい、そう思ってしまう。
手を放すのは、もう戻らないとき。
言葉を交わさなくなるのは、関係が切れたとき。
そんなふうに信じて疑わなかった。

でも、本当にそうだろうか?

川の流れに沿って歩いていたら、
あるとき流れが大きくカーブして、
もう向こう岸の人の姿が見えなくなった。
でもその人は、きっとまだどこかで歩いている。
見えないだけで、消えたわけじゃない。
“つながり”とは、そんなものかもしれない。

人は、ときに近すぎる関係に疲れる。
息ができなくなる。
「好きだから、一緒にいたい」
その想いが、かえって相手を縛ってしまうこともある。

だから、離れる。
少しだけ距離をとる。
相手のことも、自分のことも、よく見えるように。

“離れる”は、“見捨てる”ではない。
むしろ、“見守る”の始まりかもしれない。

大切な人を傷つけないために、
愛情をきれいなまま残すために、
あえて背中を向けることもある。
それは、やさしさの一つのかたちだと思う。

そしてふしぎなことに、
時間が経っても、距離があっても、
なぜか心だけは、途切れずに残っていたりする。
再会しても、まるで昨日まで話していたかのように、
自然に笑い合える関係がある。

離れることでしか見えなかったものが、ある。
離れたあとに、ようやく気づけた想いが、ある。

ずっと一緒にいることだけが、正しいわけじゃない。
離れることで保てる関係もある。
距離があるからこそ、生まれる思いやりもある。

人と人とのあいだにあるのは、
ぴったりと重なることではなく、
“ほどよく離れた、やさしい間”。

離れることを恐れないでいい。
それは、
また歩み寄るための静かな準備かもしれないから。



連作エッセイ 第3話

「許すということ」

――完璧じゃないあなたを、それでも

「許せない」
この言葉の裏には、たいてい痛みがある。
期待していたからこそ、
信じていたからこそ、
裏切られたときの傷は深くなる。

私も、何度もそう思った。
「なんであんなことをしたの」
「なぜ、あのとき何も言ってくれなかったの」
その気持ちは、いつまでも胸に残り続けて、
怒りと悲しみを混ぜ合わせて、心を曇らせていた。

でもある日、気づいた。

許すことは、忘れることじゃない。
ましてや、正当化することでもない。
傷がなかったことにするのではなく、
その傷を、自分の中に受け入れることなんだと。

「痛かった」
「つらかった」
その気持ちをちゃんと感じきった上で、
それでもなお、
その人とのつながりを手放さないこと。
それが、許すということなんだと。

そして気がつく。
ほんとうに許せなかったのは、
相手ではなく、
そんなふうに傷ついた自分だったのかもしれない。

「もっと強くあれたはず」
「こんなことで傷つくなんて」
自分に対しても、ずっと怒っていたのだ。

でも、完璧な人間なんていない。
間違えるし、感情的になるし、
余裕がなくて、大事な人を傷つけてしまうこともある。

許すことは、
その不完全さごと、愛すること。
自分にも、相手にも、そうでいていいと
伝えてあげること。

誰かを許すことで、
ようやく、自分をも許せるようになる。
自分を許したとき、
はじめて、世界がやさしく見えてくる。

許すというのは、強さではない。
それは、静かな決意だ。
傷を抱えながら、それでも
もう一度、人を信じようとする心の選択。

「許す」という言葉の奥には、
痛みと、弱さと、やさしさが同居している。
だからこそ、
許せたとき、私たちは
少しだけ、自由になれるのかもしれない。



連作エッセイ 第4話

「待つということ」

――何もしていないようで、一番大切な時間

待つことが、いちばんつらい。
どうすればいいか分からないまま、
ただ、時間が過ぎていくのを見ているしかない。
そんなふうに感じるときがある。

でも、それでも人は――
「待つ」という選択をする。

誰かの返事を。
心の整理がつくのを。
相手が変わってくれるのを。
あるいは、自分自身が立ち直るまでの時間を。

「何もしてないみたい」と思うかもしれない。
でも、待つというのは、
とても能動的で、
とても静かな“愛の行動”だと思う。

すぐに結論を出さないこと。
急かさないこと。
押しつけないこと。

相手のリズムを、信じて見守ること。
それは、実はすごく勇気のいることだ。

子どもが成長するのを待つ親。
自分の失敗から立ち直るのを待つ友人。
心が疲れて黙っている誰かに、
無理に元気を出させようとしない恋人。

そういう「待つ人」たちは、
いつも静かに、そして深く、
相手のことを“信じている”。