長岡花火に捧ぐ
軽食店で、N男は左手を見せて言った。
「すごい音の中でもコミュニケーションできるように、ハンドサインを決めとかないか? 俺が立てた指が一本は『Mちゃんも綺麗だよ』、二本は『ハグしたい』、三本は『キスしたい』でどうかな」
間も無く三十路、付き合って間も無く一年のM美は笑った。
「頭がどうかしたの? それに私たちが予約した席じゃベタベタできないよ。少なくとも私は無理」
「使う機会もあるかもしれないし。Mちゃんも『了解』のサイン決めて?」
「じゃ、N君のほっぺたをつまむ。すごい音でも真っ暗でも伝わるから」
「了解。あ、それと追加。指四本は『ちょっとトイレ行ってくる』で」
「何それ。こんなのホントにやるの?」
N男も笑って、あいまいにうなずいた。
十九時を回った、信濃川の河川敷。
残照を背に、大輪の白菊が花開く。
演目の進行とともに宵闇はより深まり、花々はより輝く。観衆は感嘆の声を出す。
見せ場の最大のひとつは、フェニックスと呼ばれる演目だ。二キロメートルの開花幅は来場者の視界を覆ってはみ出し、M美もやはり圧倒されてむしろ声を出せなかった。
M美は肩をつつかれた。見るとN男が手のひらを見せて、親指だけを折っている。M美はこの連絡手段を本当に使うんだと少し面白がり、でも少し呆れてN男のほほをつまむと、N男は席を離れた。
その後も、時間が流れるのは速かった。花火大会の終了時間まで既にそう無い。
正三尺玉が美しい。次年も、そのまた次年もきっと美しい。
でも、M美はもうすぐ三十歳だ。わざわざ決めたくせに、指二本三本はさておき一本を示しもせず、N男はM美との関係をどう考えているのだろうか。トイレなんて、勝手に行けばよかったのに……。
M美は肩をつつかれた。見るとN男が手のひらを見せて、どの指も折っていない。折らない。指五本? そんなの、決めなかったような。
M美が話すために近づこうとすると、N男は手を押し出してきた。
と、M美は気ついた。N男の手を取って、顔を近づける。N男の手のひらに、いつの間にか何かが書かれている。
赤や黄色や青で照らされるたびに、はっきりと読み取れる。
Mちゃん結婚しよう
ユビワを明日買いにいこう
M美は顔を覆った。その言葉はたくさんの破裂音がした。涙の味がして、ほどなく鼻水の味がした。
世界一の夜空の下、M美はやっと腕を伸ばして、あったかいほほをつまんだ。
(了)