旅エッセイー長崎
まず雲仙地獄なるスポットへ。硫黄泉のある温泉地には大概硫黄の噴き出す殺伐とした場所になんとか地獄と言う名前がついているが、ここは殉教の碑などがあり、キリシタンの拷問に使われた本物の地獄。硫黄の噴き出す穴に逆さづりにしたとかなんとか。霊感ある人には何か感じられてしまうのではないですかね。
さらに土石流被災家屋保存公園へ。光を通す屋根で覆ったエリアに土石流で一階部分がほとんど埋まった家々がそのまま保存され、そこに普通の生活があったことを伝えている。温泉があるということは火山も噴火する。日本列島すべてが他人ごとではない。
そして島原と言えば島原の乱。天草四郎たち反乱軍が立てこもった悲劇の原城跡へ。最終的には兵糧攻めにされ全滅、原城は完膚なきまでに破壊された。したがって原城跡はただの草原でしかない。のであるが、入り口でタブレットが貸し出されて、各所にあるQRコードを読み込めばかつての城の様子を再現した画像と解説を見ることができる。便利な時代である。石の上に誰かが置いたクルスが痛々しい。
昼に島原半島の郷土料理、餅、野菜、鶏肉、魚介類などを入れ土鍋で煮込んだ具雑煮なるものを食べる。なんでも島原の乱の時、天草四郎が餅を兵糧として蓄えさせ海や山の食事を集めて雑煮にしたのが起源という説があるらしい。それをもとに江戸時代、姫松屋という店で初代が編み出した料理だとのこと。
しかし島原の乱で餅が食べられたのはほんの最初の頃だけだったのだろう。兵糧攻めにあった原城では断崖を海に降りて海藻を取っていたらしい。原城から打って出た一揆軍の死体を敵方が解剖したところ胃の中に海藻しかなかったので兵糧攻めがきいている、と判断されたとかなんとか。
長崎市に戻り路線バスに乗って坂本龍馬の亀山社中跡地に再現された記念館を見に行く。長崎の町はほとんど海に面した斜面に作られていて平地が少ないため道路が常に混雑している。路線バスも頻繁に通りさらに路面電車も行きかう。しかも皆かなりスピードを出している。
夫はレンタカーを借りるにあたって事前にネット動画をみて脳内シミュレーションをして予習してきたらしいが、路面電車の線路をまたぐ右折やら車と路面電車の接触しそうな混雑ぶりなどに随分神経を使っていた。
道が複雑な斜面のほうは行きにくいし駐車場がないので亀山社中へは路線バスを利用した。かなりの傾斜の細い坂道をすれ違いスリリング。そしてバスを降りてからも道を間違え斜面を上ったり下りたりし、行きつくまでが大変だった。それというのも歩きすぎたかアップダウンの衝撃かで私は股関節が痛くなってしまい、ほとんど足を引きずっていたからだ。閉館時間が近いと焦る夫に合わせて走ったのも良くなかった。
その夜、稲佐山展望台に上り長崎の夜景を見にいったが、途中まで車だったのでまあなんとかいけたようなものである。有名な夜景スポットはかなり人が多かったが、細長い長崎湾を囲む街の明かりが銀河のようで美しい。股関節の痛みもだいぶ治まってきた。
翌日原爆資料館へ。長崎湾から延びる長崎港が細長く陸地に食い込んでいる地形は港としては良かったのだろう。爆心地は長崎港よりだいぶ内陸のほうで原爆投下時は囲まれた山に阻まれ、広島のように同心円状の広範囲に被害が拡がらなかったようだ。
しかし長崎は拷問と殉教、島原の乱、原爆、雲仙の火砕流、いずこもこの世に地獄が現出されてきた。
歴史的に悲惨なことが多い土地だが、それらを乗り越えて生き延びてきた人々によって今の長崎があるのだろう。ここは空も海も底抜けに明るく美しい。