土に還れ
そんな時間はセミが動かなくなって数舜後に終わってしまった。
そうして降り続けていた雨がやむ頃まで、私は随分と穏やかな時間を過ごしていた。雨音が読書を進めるような感覚が日頃の疲れからか染みていくようであった。セミはあれきり動かず、雨がやんだなと思ったときには絶命の間際らしかった。頭上の雲は秋の様子になって、湿潤な地表との差でやけに青く見えた。
私のこの穏やかな気持ちとおそらく真逆の感覚に包まれているであろうあのセミが、同じ雨に降られて、同じ晴れ間を感じている。そして同じ秋の空気が進み、セミはそのまま息絶えた。
雨宿りは終わって、さあ山頂へ向かおうとしたとき、あのセミをそのまま置いていくのが偲ばれて、けれど連れて帰るような類いのものでもなく、写真を撮って記憶に残すのもまた違うように感じられた。同じ雨に降られた肌で、あのセミをそっと掴んで土に埋めてやろうか。そうすれば私たちの間に僅かな繋がりが生まれて、あのセミの一部を連れ帰ったような感覚にさえ浸れるかもしれない。慈悲に似た無関心があらわれて、その時の私はそれが妙案であると思っていたようで、セミの近くに穴を掘って埋めてやった。セミの体が濡れた土に隠されていく。右足だけが地表に見えるような形になったとき、ああ、あのセミは本当に息絶えたのかと実感する。あのセミが生きていた痕跡を探す。土に残っていただろう足跡(人のそれとは全く違う)は雨が流してしまった。剥がれた一部の殻はおそらくアリが捨てたか先に運んでしまっている。アリもまた、土の下に巣穴をつくり、あのセミの生きた痕跡がすべて土の下に埋まっていく……最後の土を被せると本当に跡形もなくただの地表になってしまった。
終わりが何事もなく目の前を通っていって、何事もなかったかのように生きていた時間が消されていく。そしてその主犯は私であり、幇助したのはあのアリたちであった。そのときの私はその構図になぜか満足していたようで、明るい気持ちのまま山道を登っていった。
山道はそのうち太くなっていって、人工的な手摺が付き出した。一体いつからあっただろうかと思い返してみるが、境目がさっぱりわからない。頭に残っているのはあのセミの最期のスローモーションと、終わり際の土の感触を確かめるように手を擦りあわせていた自分の姿であった。私はそのことばかりを何度も繰り返しながら、それに加えて、消えていった捏造の未来を何個も想像しながら(例えばあのセミが突然羽化して、柔らかい羽を触った感触を覚えているなどという妄想だ)、気づけば手摺を掴んでいた。
山道が終わりを向かえようとしている。私の何気ない思い付きの旅が終わりを告げるわけだが、その終わり方を想像して足がとまってしまった。
別にこのまま死んでしまおうだとか、別の町に引っ越すだとか、何かが変わるわけでもない。ただ、日常の中での思い付きがひとつ、終わってしまう。その事実が、この思い付きの終わり方を何か強い思いや情景にのせなくてはならないのではないか? という迷いを生んでいる。そう思った時、あのセミも同じようなことを思ったのではないかということが浮かんできた。
あのセミは、羽化するために地表に出てきて、不幸なことにアリたちに絡まれて殻を破られ、そのまま巣穴へ運ばれた。道中抵抗を見せながらも、自分より小さなアリたちの強い力に負け、あのセミの意思とは関係なく山道まで運ばれた。その結果、私とセミは出会うことができて、セミは息絶えて、私という巨大な生物に埋葬された。これは推測だが、私があのセミを埋めたときは、セミはまだ意識があった。半分生き埋めにされながら、しかし自分は土の中で生きてきたわけだから、随分不思議な感覚だっただろう。自分が生まれて生きてきた時間が染み込んでいる土の中で、馴染みのない「死」というものを体感しつつ、体は馴染みのある土に包まれている。始まりと終わりが同じ土を媒介に繋がりながら、あのセミは終わりの向こうへと向かっていったことになる。
セミの最期をいくつもいくつも捏造してしまったせいで、前述の事実がなんだか浮いているように感じられた。実はその事実のほうが捏造であったのではないか、という感覚だ。
同時に、私がいま平行して想像している思い込みの旅の最期というものも、もうすぐ訪れる本当の事実が浮いて、私が捏造した「終わり」の方を事実として記憶して、家で待つあの人に満足げに話すのかもしれない。ああ、そんな未来が見えてしまった。
そんなことを立ち止まりながら考えていると、
これまで見てきたあらゆる終わりというものは、実は捏造した事実だったのではないか。
という一節が力をもってしまった。例えば終電を逃して真っ暗な無人駅で一夜を明かしたあのことも、家で待つあの人と出会ったときに同時に遭遇したある終わりも、そのどれもが捏造の終わりだったのかもしれない。私が本当に体験したはずの終わりというものが、ひとつも確証を得られずにいる。
あのセミのスローモーションを思い出す。あれは確かにあのセミの最期に繋がる大事な、私にとっても大事な一瞬であったのだ。あのスローモーションはこれまでのどの場面でも遭遇したことがない。初めて体感したあの場面を、これまでの私が捏造することはできない。あのセミは、確かにあのスローモーションを経て、私の目の前で終わりを向かえた。
この、変えられようのないセミの終わりというものを、私は誰かに話さなくてはならない。そうしてやっと、私の捏造ではない終わりというものをひとつ、手に入れられる。そしてその確かな終わりというものは、セミを埋めたときの満足感と似たものを私にもたらし、その先の私が生きる時間を進める一歩になるはすだ。あのセミを埋めたあと、私は満足しながら山道をのぼったのだから。
ぐるぐると回っていた思考がまとまっていく。セミのことばかり考えていたからか、セミのヌケガラのなかで滞留する中身を想像する。あの殻の中は液状なのだろうか。あのセミは固形の様子を見せていたが、どこかのタイミングではきっと液状だったのだろう。終わりへ向かってそれが固まりだして、美しい羽の形を保つ。私の中を回っていた思考というものもおそらくそうやって固まりだして、いつの間にかその固形の状態が壊れるのを恐れるようになって、生きていたいと思うようになった。そう思うようになったころから、私はあのセミと同じように地表に出てきだして、いくつもの美しい終わり方というものを捏造してきた。自分の固まった体と思考が終わりを向かえるとき、捏造したどの終わり方よりも美しく、美しく終われるように。そして、最も美しい終わり方を捏造するために、私はあのセミのスローモーションのような新しい感覚を得続けなければならないらしい。
セミの最も美しい瞬間はきっと、終わりを超えて、土に還り始めたそのときの私が知っている。それを知るために、私は山頂ではなく家の方に向かって、もう一度生き始めた。
了