旅エッセイー東北紀行
復興はまだ遠く 福島、亘理鳥の海(202310)
震災から約10年を経た東北へ旅した。福島第一原発付近の解放された道路を通って宮城県へ向かう。通行可能になったとはいえ、今も除染の続く地域へは入れないし途中下車はできない。道沿いには鬱蒼と生い茂る庭木におおわれた廃墟が点在していて生々しい。それまで人が住んでいた家々がある日突然生活を残したまま打ち捨てられそのまま放置された、という景色はまさにゴーストタウン。田畑であっただろう場所もススキとセイタカアワダチソウが繁茂する原野と化していた。
途中コンビニで買ったおにぎりを食べようと、元道の駅のような場所を見つけてパーキングに車を止めた。営業はしていないが除染作業員が出入りしている。
すると一人の作業員が近寄ってきて窓を叩かれた。駐車禁止なのかな、と思ったら
「停めてもいいんですがそっちの草の生えてる方には近づかないでください。汚染されてるので。なるべく真ん中あたりに停めたほうがいいです」
窓を閉め少し車を移動させ、慌てておにぎりを食べ速やかに退散したのはいうまでもない。
東電廃炉資料館に行く。予約制でまとまった人数を担当係員がガイドしながら回っていく。分厚いコンクリートの原子炉建屋内に、鋼鉄製の原子炉格納容器があり、原子炉圧力容器が入っている、という実物大をカットしたモデル。壁はそれぞれ30センチくらいはある。もっとあるかも。その中に燃料集合体と制御棒が入ってるそうだ。実物の燃料集合体の金属パイプが展示されている。直径3センチくらい長さ3メートルくらいの棒である。それらを10年かけてロボットを使って取り出し、次々溜まっていった汚染水を処理しているという。原発の後始末の大変なことだ。
何度もフィルターを通して除染した処理水の放射線は自然界の中に存在するレベルに落とされ、海洋に放出してもなんら問題がない、という説明。なるほど、と聞いていたが、後になってから質問すればよかった、と思ったことが一つ。処理に使ったウランやらなにやら吸着させたフィルターってその後どう始末したのだろう?ああ、聞けばよかった。気になる。
大熊町の道の駅のような施設に立ち寄って屋上から周囲を眺める。新しく建てられた建物が点在する程度で、あとは何もない野原。原野を突っ切る新しい道路がまるで飛行場の滑走路のようだ。遠方に福島第一原発のシルエットが見える。放射能というものは10年では復興にはまだまだ遠い道のりがありそうだ。
宮城県に入り阿武隈川の下流の亘理温泉鳥の海に宿をとる。建物の外壁に、津波の到達位置の印がつけられていた。一階の天井近くまで津波にのまれたことになる。そのくらいで済んだためこの建物は倒壊せずその後もホテルを営業できているからまだいいのだろう。周囲には他に高い建物はなく、このホテルしか残らなかったのかもしれない。博物館に平成22年と23年の航空写真があった。震災、津波を経て緑色の田んぼはなくなり一帯が茶色くなっていた。家屋はほとんどが平屋のように見える。自然の猛威を前に人間とはなんと非力ななことか。
一日も早い復興を願うばかりである。
奥州藤原氏の栄華と震災の爪痕 中尊寺、松島(202310)
奥州平泉の中尊寺を訪れる。言わずと知れたの国宝建造物第一号の金色堂がある。
9世紀に天台宗慈覚大師によって開かれ12世紀初頭に奥州藤原氏初代清衡が大規模な造営を行った中尊寺は、法華経に説かれる一場面を表現したものだという。四代泰衡の源平合戦から鎌倉時代の黎明期、兄頼朝に追われた義経を三代秀衡が匿ったものの秀衡病没後、頼朝の圧力で義経を自害に追いやった四代泰衡も討たれ奥州藤原氏は滅亡した。
庇護者を失い衰退した中尊寺は14世紀の火災でかなり焼失したらしいが、それでも金色堂をはじめとする仏教美術が良好に保存され2011年に世界文化遺産に登録された。
清衡によって上棟された金色堂の内陣は、はるか南洋からシルクロードを渡りもたらされた夜行貝の螺鈿、象牙、宝石などで飾られ、須弥壇内には金色の棺に納められた初代清衡、二代基衡、三代秀衡、四代泰衡の亡きがらが安置されている。
毛越寺もまた慈覚大師円仁より開山され二代藤原基衡三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営されたようだが後に焼失。今は平成に再建された本堂と広い池と遺構だけが残っている。往時は平安貴族の邸宅のような雅な庭園が拡がっていたのだろう。今でも曲水の宴イベントなどをやっているらしい。今は紅葉が美しい季節である。
東日本大震災の時津波の犠牲になった石巻市の大川小学校の遺構へ行く。大川小学校は北上川の川沿いにあり、津波が来た時、海水は河を逆流し河口一帯の低地は2メートルを超える波に襲われ浸水したらしい。小学校では一部山へ、との声もあがったが訓練のマニュアルに従い北上川にかかる橋のたもとに避難したため悲劇的な結果となった。海でも川でも水のある低い土地からは離れなければならなかったのに。学校のすぐ裏は山になっている。ぱっと見、上り口も見当たらないが、そちらの山に登っていれば助かったであろうに。
しかも土地が広く生徒数も少ない学校は2階建てで、上の階に非難することが叶わなかった。ゆったりしたつくりで中庭を囲むよう教室が配置された円形の建物は、中庭に面した一階部分は窓も壁もなくなり天井が壊れている。津波は一階から二階へ天井と床を突き上げ、二階の天井までもを破壊した。二階部分で体育館とつながるコンクリートの通路は柱が根元から折れ、校舎側が完全に外れて斜めに落ちている。校庭を囲むコンクリートの壁も崩れて鉄骨がむき出しになった部分がある。児童たちが書いたであろう雨ニモマケズ、の文字や銀河鉄道のペイントが人気のない校庭に虚しい。
松島へ向かう。夕刻奥松島の宿の周辺を散歩してみたが、野蒜海岸という半島のように海に突き出たエリアを通る、仙台と石巻を結ぶ仙石線も被害を受け、今では線路は内陸部に移動していた。かつての線路は遊歩道のようになっていて付近には震災復興伝承館やら復興記念公園がある。案内板が立ち、かつての東名駅と、がれきの山になった同じ場所の写真が並べられていて痛々しい。暮れていく秋空の朱を背景に、黒くシルエットになった薄や萩が風に揺れる。
翌日は瑞巌寺へ。有名な寺だが来歴は複雑。9世紀、坂上田村麻呂が堂宇を建立し、比叡山三代座主慈覚大師円仁が開創した天台宗延福寺が前身と伝わっているらしい。
鎌倉時代に臨済宗に改宗、円福寺となった、とあるが、最近の発掘調査で円福寺と瑞巌寺は同じ場所だが延福寺は別の場所にあったらしい。
その後伊達政宗によって復興、正式名称が松島青龍山瑞巌円福禅寺で、瑞巌寺と呼ばれるようになったという。
伊達家の菩提寺瑞巌寺から海方面に降りると蝋人形館があり、伊達政宗の生涯が梵天丸時代から展示されていた。松島湾に浮かぶ島々を眺め、歩いて橋を渡れる島に行ってみたりした後、松島湾を一望できる場所、などを見ていたら夫が体調不良を訴えてきた。
震災から約10年を経た東北へ旅した。福島第一原発付近の解放された道路を通って宮城県へ向かう。通行可能になったとはいえ、今も除染の続く地域へは入れないし途中下車はできない。道沿いには鬱蒼と生い茂る庭木におおわれた廃墟が点在していて生々しい。それまで人が住んでいた家々がある日突然生活を残したまま打ち捨てられそのまま放置された、という景色はまさにゴーストタウン。田畑であっただろう場所もススキとセイタカアワダチソウが繁茂する原野と化していた。
途中コンビニで買ったおにぎりを食べようと、元道の駅のような場所を見つけてパーキングに車を止めた。営業はしていないが除染作業員が出入りしている。
すると一人の作業員が近寄ってきて窓を叩かれた。駐車禁止なのかな、と思ったら
「停めてもいいんですがそっちの草の生えてる方には近づかないでください。汚染されてるので。なるべく真ん中あたりに停めたほうがいいです」
窓を閉め少し車を移動させ、慌てておにぎりを食べ速やかに退散したのはいうまでもない。
東電廃炉資料館に行く。予約制でまとまった人数を担当係員がガイドしながら回っていく。分厚いコンクリートの原子炉建屋内に、鋼鉄製の原子炉格納容器があり、原子炉圧力容器が入っている、という実物大をカットしたモデル。壁はそれぞれ30センチくらいはある。もっとあるかも。その中に燃料集合体と制御棒が入ってるそうだ。実物の燃料集合体の金属パイプが展示されている。直径3センチくらい長さ3メートルくらいの棒である。それらを10年かけてロボットを使って取り出し、次々溜まっていった汚染水を処理しているという。原発の後始末の大変なことだ。
何度もフィルターを通して除染した処理水の放射線は自然界の中に存在するレベルに落とされ、海洋に放出してもなんら問題がない、という説明。なるほど、と聞いていたが、後になってから質問すればよかった、と思ったことが一つ。処理に使ったウランやらなにやら吸着させたフィルターってその後どう始末したのだろう?ああ、聞けばよかった。気になる。
大熊町の道の駅のような施設に立ち寄って屋上から周囲を眺める。新しく建てられた建物が点在する程度で、あとは何もない野原。原野を突っ切る新しい道路がまるで飛行場の滑走路のようだ。遠方に福島第一原発のシルエットが見える。放射能というものは10年では復興にはまだまだ遠い道のりがありそうだ。
宮城県に入り阿武隈川の下流の亘理温泉鳥の海に宿をとる。建物の外壁に、津波の到達位置の印がつけられていた。一階の天井近くまで津波にのまれたことになる。そのくらいで済んだためこの建物は倒壊せずその後もホテルを営業できているからまだいいのだろう。周囲には他に高い建物はなく、このホテルしか残らなかったのかもしれない。博物館に平成22年と23年の航空写真があった。震災、津波を経て緑色の田んぼはなくなり一帯が茶色くなっていた。家屋はほとんどが平屋のように見える。自然の猛威を前に人間とはなんと非力ななことか。
一日も早い復興を願うばかりである。
奥州藤原氏の栄華と震災の爪痕 中尊寺、松島(202310)
奥州平泉の中尊寺を訪れる。言わずと知れたの国宝建造物第一号の金色堂がある。
9世紀に天台宗慈覚大師によって開かれ12世紀初頭に奥州藤原氏初代清衡が大規模な造営を行った中尊寺は、法華経に説かれる一場面を表現したものだという。四代泰衡の源平合戦から鎌倉時代の黎明期、兄頼朝に追われた義経を三代秀衡が匿ったものの秀衡病没後、頼朝の圧力で義経を自害に追いやった四代泰衡も討たれ奥州藤原氏は滅亡した。
庇護者を失い衰退した中尊寺は14世紀の火災でかなり焼失したらしいが、それでも金色堂をはじめとする仏教美術が良好に保存され2011年に世界文化遺産に登録された。
清衡によって上棟された金色堂の内陣は、はるか南洋からシルクロードを渡りもたらされた夜行貝の螺鈿、象牙、宝石などで飾られ、須弥壇内には金色の棺に納められた初代清衡、二代基衡、三代秀衡、四代泰衡の亡きがらが安置されている。
毛越寺もまた慈覚大師円仁より開山され二代藤原基衡三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営されたようだが後に焼失。今は平成に再建された本堂と広い池と遺構だけが残っている。往時は平安貴族の邸宅のような雅な庭園が拡がっていたのだろう。今でも曲水の宴イベントなどをやっているらしい。今は紅葉が美しい季節である。
東日本大震災の時津波の犠牲になった石巻市の大川小学校の遺構へ行く。大川小学校は北上川の川沿いにあり、津波が来た時、海水は河を逆流し河口一帯の低地は2メートルを超える波に襲われ浸水したらしい。小学校では一部山へ、との声もあがったが訓練のマニュアルに従い北上川にかかる橋のたもとに避難したため悲劇的な結果となった。海でも川でも水のある低い土地からは離れなければならなかったのに。学校のすぐ裏は山になっている。ぱっと見、上り口も見当たらないが、そちらの山に登っていれば助かったであろうに。
しかも土地が広く生徒数も少ない学校は2階建てで、上の階に非難することが叶わなかった。ゆったりしたつくりで中庭を囲むよう教室が配置された円形の建物は、中庭に面した一階部分は窓も壁もなくなり天井が壊れている。津波は一階から二階へ天井と床を突き上げ、二階の天井までもを破壊した。二階部分で体育館とつながるコンクリートの通路は柱が根元から折れ、校舎側が完全に外れて斜めに落ちている。校庭を囲むコンクリートの壁も崩れて鉄骨がむき出しになった部分がある。児童たちが書いたであろう雨ニモマケズ、の文字や銀河鉄道のペイントが人気のない校庭に虚しい。
松島へ向かう。夕刻奥松島の宿の周辺を散歩してみたが、野蒜海岸という半島のように海に突き出たエリアを通る、仙台と石巻を結ぶ仙石線も被害を受け、今では線路は内陸部に移動していた。かつての線路は遊歩道のようになっていて付近には震災復興伝承館やら復興記念公園がある。案内板が立ち、かつての東名駅と、がれきの山になった同じ場所の写真が並べられていて痛々しい。暮れていく秋空の朱を背景に、黒くシルエットになった薄や萩が風に揺れる。
翌日は瑞巌寺へ。有名な寺だが来歴は複雑。9世紀、坂上田村麻呂が堂宇を建立し、比叡山三代座主慈覚大師円仁が開創した天台宗延福寺が前身と伝わっているらしい。
鎌倉時代に臨済宗に改宗、円福寺となった、とあるが、最近の発掘調査で円福寺と瑞巌寺は同じ場所だが延福寺は別の場所にあったらしい。
その後伊達政宗によって復興、正式名称が松島青龍山瑞巌円福禅寺で、瑞巌寺と呼ばれるようになったという。
伊達家の菩提寺瑞巌寺から海方面に降りると蝋人形館があり、伊達政宗の生涯が梵天丸時代から展示されていた。松島湾に浮かぶ島々を眺め、歩いて橋を渡れる島に行ってみたりした後、松島湾を一望できる場所、などを見ていたら夫が体調不良を訴えてきた。
作品名:旅エッセイー東北紀行 作家名:鈴木りん