死刑囚の視点(④長谷川真人)
それよりもっと怖いのは、姉ちゃんや、僕を育ててくれた両親が、亡くなって、僕をどう思っているのか、分からなくなってしまったことなんです。
夜な夜な枕もとでも、夢の中でもいい。もし姉ちゃんが僕の前に現れたら、僕は、その足元にすがりついて謝りたいんです。僕は、姉ちゃんのことを、何も分かっていなかった!
そんな愚かな僕のことを、姉ちゃんは、どう思うだろうか……憎しみのこもった目で僕を見下ろすだろうか。歳はもう30を超え、白髪が混じり始めた僕の頭や、弛み始めた僕のお腹を見て「アンタ、老けたね~」ってあざ笑うだろうか。
恨まれてもいい。
憎まれても、叩かれても、いい。
申しわけ、ありませんでした……。床が僕の涙でぐしょぐしょに濡れ、おでこを、その奥にある骨が割れそうなほどに強く、強く、何度も打ちつけても尚、僕は姉ちゃんに、お父さんとお母さんに謝りたかった。
どうして気づけなかったのか!みんなの苦しみを、僕は……お父さんの会社のこととか、お母さんの苦しみとか、姉ちゃんの悲しみとか……何も分かっていなかった。僕は、何も分かっていなかった!
出来たら、僕は、姉ちゃんに、顔を上げるように言われて、それで、頬っぺたを二、三発、ピタピタと叩かれて、それで、そして、抱きしめて欲しかった。強く抱きしめられて、もう身体が壊れそうなほどに強く、強く抱きしめてもらって……姉ちゃんの鼓動を感じながら、自分の胸も苦しくなって、それで、僕は、そのまま消えて無くなってしまいたかった。
僕の愚かな過ちを、僕の存在自体を初めから無かったことにして、僕は、この世から綺麗さっぱり消えて無くなってしまいたかった。
ああ……僕は、やっぱり、自分の罪から逃げようとしているんだ。あの控訴審で、僕を問い詰めてきた裁判官さんの言った通りだった。僕は、自分の罪を償う気なんか、ホントは、最初からこれっぽっちも無かったんだ。
ホントは、姉ちゃんに、お父さんとお母さんに赦してもらいたいだけなんだ。「真人、アンタは何も悪くない」って、こう、頭を撫でてもらいたいだけなんだ。
ああ、僕は、やっぱり「悪魔の子」だったんだ。
あの先生は、やっぱり間違っていなかったんだ……。
「真人さん」
僕は、両手をついた床から顔を上げる。鼻から垂れた鼻水が、糸を引いて床とくっついていた。金井先生は、大ぶりのハンカチで、僕の汗や涙でまみれた顔をやさしく拭ってくれる。
「ゆるされるでしょうか、僕は」
僕は火照り、緩みきった表情のまま金井先生に問うた。金井先生の目じりが、情けないくらい、悲しそうに下がる。
僕は、姉ちゃんたちに、赦してもらえるだろうか。
「分からない」
後ろから声がした。振り返ると、網谷先生の、感情の薄い目がじっと、僕を見つめている。
「分からないが、そうして悔やみ続けて欲しいと、亡くなった3人はきっと思うだろう」
「どうして……」
網谷先生の無表情を見つめながら、僕の中に、微かに、閃くものがあった。
「どうして、分かるんですか?」
その時、ほんの一瞬だけど、網谷先生の視線が、揺れた。「もしかして……」僕は床の上に、自分の涙で濡れた指を這わせ、やはり床についた網谷先生の指先に、そっと触れた。
「網谷先生にも、そういう経験があるんですか?」
あなたにとって大切な人を、奪われた経験が……。しかし、網谷先生は、僕の指先が触れると、すぐに、愚かで、汚らしい僕を拒絶するかのように、その場からすくっと立ち上がる。
「もう時間だ」
網谷先生は視線を、僕の緩みきった表情から、左腕にはめた時計に移す。そして、冷たい声で告げた。
「立て。教誨終了だ」
線香のにおいで満たされた廊下を抜け、頑丈な扉のエレベーターを使って地下階に降りる。見たことない数の刑務官に囲まれて刑場に向かいながら、僕の心臓はドキドキしていた。人生の最期というか、こんな時にヘンだけど、僕は18歳で初めて家出をした夜、姉ちゃんやナツやダイスケたちとゲーセンで遊んだ時のことを思い出していた。レーシングゲームで僕が上手く車を操作できなくて、姉ちゃんがハンドルを掴む僕の手に、自分の手を重ねてくれた。その時に感じた姉ちゃんの温もりや、大人の女性のようなにおいを思い出して、僕はまたドキドキとした。
刑場の隣にある教誨室に僕が入ってくると、待っていた金井先生はいつもの人懐こい笑顔を浮かべ、そして、深く頷いた。僕が怯えるのでも、暴れるのでもなく、しゃんとしてここに現れたことを褒めてくれるみたいに。
「どんな気持ちなんですか?」
手錠と腰縄を外され、向かい合ったソファに座ると、僕の方から金井先生にそう聞いてみた。
「先生は、もう何人も僕のような死刑囚を見送ったんでしょう?」
「ええ、まあ……」
金井先生は困った笑みで目を瞬き、ぷっくりとした指で米神の辺りを掻く。
「死刑囚と言っても色んな人がいるから、恨まれたり、すがられたりして、すごく大変な思いをしたんじゃないですか?」
こんなこと聞かれると思っていなかったのだろう、金井先生の表情が情けなく緩み、みるみる歪んでいく。僕の後ろで待機している刑務官の誰かが、大きな音を立てて鼻をすすった。そこには、先導役でついてきた網谷先生もいるはずだったが、彼はきっと、いつもの無表情でじっと立っているに違いない。
「ありがとうございました」
僕は床に膝をつくのではなく、目の前にあるテーブルに両手をついて、金井先生と、網谷先生と、その周りの刑務官の人たちにも向かって、深々と頭を下げた。
今日、僕は、この命をもって罪を償います。
結局、姉ちゃんたちは、最期まで僕の前に現れてくれませんでした。それも、僕が犯した罪の代償なのだとしたら、僕は受け入れなくてはならない。
ありがとう、ございました。僕は目隠しと手錠をされても、すぐ傍で誰かが鼻をすする音や、荒い息遣いや、僕の手首や肩や背中に触れる指先の震えで、ここにいるみんなの想いが痛いほどに伝わってきた。
ホントに、ありがとうございました。こんな僕を、みんなは愛してくれました。牧野弁護士。彼は今も、僕を救うため血眼になって、新しい証拠をかき集めて、再審の準備をすすめている。もう僕の刑を止めることは誰にもできなくて、それがどんなに無駄なことだと分かっていても。
「いくぞ」
網谷先生の相変わらず冷たい声と共に、目の前でカーテンがさっと開かれる音がする。
ありがとうございました。姉ちゃんや、僕を育ててくれた両親が、僕を赦してくれたかは、もう分からないけれど。少なくとも姉ちゃんは、生きていた時の姉ちゃんは、こんな僕を、好きでいてくれました。
刑場の入口を示すラインの冷たさを、裸足の裏に感じる。果たしてこの命でもって、僕は犯した罪を償うことが出来るのか……分からないけれど。
僕は今、僕に付き添ってくれた人たちと、姉ちゃんから愛された記憶だけを抱きながら死んでいきます。こんな僕が生きた証を、背後ですすり泣く人たちの記憶に刻み込んで。
足首にも縄が巻かれ、首に縄の冷たい感触があたる。僕は、死んでいきます。
ありがとう。
完。
作品名:死刑囚の視点(④長谷川真人) 作家名:moshiro