君の解像度
僕はスマートフォンを覗き込んだ。
一枚しか無いそのプロフィール写真は、人物よりは風景を写していた。ああ人物の比率の無さ! 縦横各数百画素だから、指を使って彼女の顔を拡大表示して、拡大表示しても覚束ない。ぼんやりと、僕の好みっぽく見えるのだけど……。
「もっと高い解像度で欲しい!」
彼女は、マッチングアプリというものを警戒したのか。しすぎたのか。夜目遠目笠の内というが、温故知新のテクニックなのか。あるいは、ぼんやりと誤った、ただぼんやりとした子なのか……。
僕こと二十八歳技術者独身のRは、数年前にその都市に移り住んで就職し、仕事を続けていく自信をまあ積み上げた。続けて、冬眠を終えた生き物たちが動き出すその春に流行りのマッチングアプリに登録。価値観が近く思われた、少し年下の会社員I美さんを選んで「いいね」を送った。I美さんの顔は不確かで、そんな写真をたった一枚載せているI美さんの真剣度も、競争率も分からぬままのことだった。
果たしてI美さんからの「いいね」は、返ってきた。そのアプリにおける辛辣なところ、いわばカタログショッピングでの素通りは、幸い免れたようだった。
つまりマッチングしたのだ。
ジョギングしながら季節の野花を眺めるだけだったが、持ち運べる小さな花も得た思いだ!
多忙の合間を縫ってやりとりを進めると、やはり僕とI美さんとの価値観は近かった。動物好きであり映画好きであり、それぞれ他県の出身で友人が多くないのもポイント。プロフィール写真の件は、単に慎重なのであって、相手を真面目に探しているとの返信だった。
そのうちに、初めてのデートが、新しくできたという猫カフェで決定した。
「Rさんですよね? I美です、リアルでは初めまして……」
「初めまして、Rです」
待ち合わせ場所に現れた本物のI美さんを見て、僕は、例の写真についての賭けに勝ったと内心ガッツポーズした。
「I美さん、今日はよろしくお願いします」
硬いセリフを述べつつ、I美さんが逃げも怯えもせず笑顔で話しかけてくれたので、本物の僕の印象もまずまずなのだろうと、その点でも内心同じくである。
さて、お目当ての猫カフェに着くと、広い窓が並んでいた。中に入ると、猫たちがもちろん気ままにしていた。
「おー、もふもふだらけだ」
「アビシニアンちゃんこんにちは~」
僕のざっくりした語彙に続けて、近寄ってきた猫にI美さんが応えた。
僕たちが座席に着くと、また別の猫が歩いてきてぼてっと倒れた。
「おっ、猫が寝転んだ」
「Rさんいきなり寒くないですか?」
I美さんにスムーズにツッコまれ、僕は苦笑した。
「今のはあいにく流れで……」
「いいですよ。私もダジャレ言うので」
と笑うI美さんの膝にまた別の猫がやってきて、僕たちの注意を奪い取った。
「マンチカンかわいい~、お名前何かな~」
I美さんは、その小さな猫を撫でて嬉しそう。なお猫のプロフィールを知るには、壁の掲示の前まで行くか、ウェブページを開くかだ。
「I美さんは、猫に対する解像度が高いね」
「もふもふ」「猫」と口走った程度の僕が感心すると、I美さんは撫で続けながら「ねこ動画のせいですね」と笑った。
僕は、猫の品種に疎い。実家で何匹か猫を飼ってきたが、いずれもよく分からない雑種だった。ためにそのままでは猫好きが詐称にもなりかねなかったが、僕は幸い証明手段を隠し持っていた。
僕は、機会を見て、温存していた特技の一つを披露した。
小さく猫の鳴き真似をして、猫たちに「おっ?」というような反応をさせたのだ。その鳴き真似の完成度は人語では伝えづらいが、猫たちによる評価でもってお認めをいただきたい。
というわけで、I美さんも
「え~Rさんっ? 何かすごい!」
僕は経緯を説明した。いやはや、実家で歴代愛猫を相手に、反応を楽しみながら無駄に繰り返した甲斐があった。彼らの存在と肉球に感謝である。
「ヘンなヒトだと思われちゃったかな」
と僕が自嘲を兼ねた確認をすると、I美さんは「私も変わってるって言われるので」と笑った。
社交辞令か事実かは、その時の僕には判らなかった。
時間いっぱいI美さんと猫たちと過ごして、帰宅後友人に相談した。
彼からは、「次は無いよそれ」とからかわれた。
が、彼には申し訳無くも、次もあった!
せっかく春なのだからと、週間天気予報も見守って、ふたりでドライブに行くことに決めた。
青空の広がった週末、僕が車を出して、I美さんが住むアパート付近のコンビニエンスストアで待ち合わせる。
I美さんの姿を見つけ、胸を躍らせて車を停める。
続けてI美さんが左のドアを開いて、流れは思わぬ方向に進んだ。
「お待たせー。待ったかな?」
「いえちょうど来、あいたっ」
I美さんは助手席に乗ろうとして、車の「ひさし」に頭をぶつけてしまったのだ。
「だ、大丈夫?」
僕が左手を突いて身を乗り出すと、立ったままI美さんは頭を抱えている。
「いたたたた……」
運転席から降りて回り込むと、I美さんはバッグを落としてしまっていた。
「大丈夫? 体を張ったダジャレみたいになってたけど」
「大丈夫です……」
I美さんは、照れたような笑いを見せてくれる。
I美さんが改めて助手席に座ってくれるのを見守った後、僕は運転席に戻った。
「星も舞わなかったし、コブもできてないです……」
とのことだが、I美さんの表情は曇っている。
「けっこう強くぶったの?」
「う~ん……」
車のボディーは金属だし、I美さんの打ち所も打ち所だ。予定に急いで従わなくていいだろう。
「しばらく安静にしようか」
改めて車を止めて、I美さんの様子を伺う。
「……私もう死にます」
「食べたいお菓子が冷蔵庫に残ってるんじゃない」
さすがに冗談だろうので冗談で返し、僕は、頭を打ったときに関する情報をスマートフォンに求め出す。
「すみません、私トロくさくて……」
「全然いいよ……僕も、頭を車にぶつけたことあるから」
「……Rさんもですか?」
「昔社用車で、急いでた時に一回ね……心の中で始末書を書いて、それからは左手を車の天井に添えてくぐるか、腰から入るようにしてる」
「……」
「みんな、失敗しては改める毎日なんだろうね」
……なるほど。話しつつ見つけた情報と比べて、I美さんは、嘔吐だのけいれんだのは普通に免れられている。さらに応急聞き取りを試みる。
「ネットで見つけたとおりに聞いていい? I美さん、ここがどこだか分かるよね?」
「愛知県名古屋市瑞穂区……コンビニの駐車場」
「うん。ものが二重に見えたりは?」
目をぱちぱちとして、首も少し動かす。
「……大丈夫です」
「手足はしびれてない?」
「……はい」
「頭痛、吐き気はどう?」
「……私が心配性なのかもしれないです。心配のせいで、気分がよくないのかな……」
瞳孔の確認は、踏み込みかねた。全日安静にすべきだという情報も見えている。
考えは、定まった。
「さっきは茶化して本当にゴメン。心配も晴らせるから、今から病院へ行こうか? 幸い土曜日だから開いてるし、I美さんをひとりきりのアパートに帰しても心細いだろうし」
一枚しか無いそのプロフィール写真は、人物よりは風景を写していた。ああ人物の比率の無さ! 縦横各数百画素だから、指を使って彼女の顔を拡大表示して、拡大表示しても覚束ない。ぼんやりと、僕の好みっぽく見えるのだけど……。
「もっと高い解像度で欲しい!」
彼女は、マッチングアプリというものを警戒したのか。しすぎたのか。夜目遠目笠の内というが、温故知新のテクニックなのか。あるいは、ぼんやりと誤った、ただぼんやりとした子なのか……。
僕こと二十八歳技術者独身のRは、数年前にその都市に移り住んで就職し、仕事を続けていく自信をまあ積み上げた。続けて、冬眠を終えた生き物たちが動き出すその春に流行りのマッチングアプリに登録。価値観が近く思われた、少し年下の会社員I美さんを選んで「いいね」を送った。I美さんの顔は不確かで、そんな写真をたった一枚載せているI美さんの真剣度も、競争率も分からぬままのことだった。
果たしてI美さんからの「いいね」は、返ってきた。そのアプリにおける辛辣なところ、いわばカタログショッピングでの素通りは、幸い免れたようだった。
つまりマッチングしたのだ。
ジョギングしながら季節の野花を眺めるだけだったが、持ち運べる小さな花も得た思いだ!
多忙の合間を縫ってやりとりを進めると、やはり僕とI美さんとの価値観は近かった。動物好きであり映画好きであり、それぞれ他県の出身で友人が多くないのもポイント。プロフィール写真の件は、単に慎重なのであって、相手を真面目に探しているとの返信だった。
そのうちに、初めてのデートが、新しくできたという猫カフェで決定した。
「Rさんですよね? I美です、リアルでは初めまして……」
「初めまして、Rです」
待ち合わせ場所に現れた本物のI美さんを見て、僕は、例の写真についての賭けに勝ったと内心ガッツポーズした。
「I美さん、今日はよろしくお願いします」
硬いセリフを述べつつ、I美さんが逃げも怯えもせず笑顔で話しかけてくれたので、本物の僕の印象もまずまずなのだろうと、その点でも内心同じくである。
さて、お目当ての猫カフェに着くと、広い窓が並んでいた。中に入ると、猫たちがもちろん気ままにしていた。
「おー、もふもふだらけだ」
「アビシニアンちゃんこんにちは~」
僕のざっくりした語彙に続けて、近寄ってきた猫にI美さんが応えた。
僕たちが座席に着くと、また別の猫が歩いてきてぼてっと倒れた。
「おっ、猫が寝転んだ」
「Rさんいきなり寒くないですか?」
I美さんにスムーズにツッコまれ、僕は苦笑した。
「今のはあいにく流れで……」
「いいですよ。私もダジャレ言うので」
と笑うI美さんの膝にまた別の猫がやってきて、僕たちの注意を奪い取った。
「マンチカンかわいい~、お名前何かな~」
I美さんは、その小さな猫を撫でて嬉しそう。なお猫のプロフィールを知るには、壁の掲示の前まで行くか、ウェブページを開くかだ。
「I美さんは、猫に対する解像度が高いね」
「もふもふ」「猫」と口走った程度の僕が感心すると、I美さんは撫で続けながら「ねこ動画のせいですね」と笑った。
僕は、猫の品種に疎い。実家で何匹か猫を飼ってきたが、いずれもよく分からない雑種だった。ためにそのままでは猫好きが詐称にもなりかねなかったが、僕は幸い証明手段を隠し持っていた。
僕は、機会を見て、温存していた特技の一つを披露した。
小さく猫の鳴き真似をして、猫たちに「おっ?」というような反応をさせたのだ。その鳴き真似の完成度は人語では伝えづらいが、猫たちによる評価でもってお認めをいただきたい。
というわけで、I美さんも
「え~Rさんっ? 何かすごい!」
僕は経緯を説明した。いやはや、実家で歴代愛猫を相手に、反応を楽しみながら無駄に繰り返した甲斐があった。彼らの存在と肉球に感謝である。
「ヘンなヒトだと思われちゃったかな」
と僕が自嘲を兼ねた確認をすると、I美さんは「私も変わってるって言われるので」と笑った。
社交辞令か事実かは、その時の僕には判らなかった。
時間いっぱいI美さんと猫たちと過ごして、帰宅後友人に相談した。
彼からは、「次は無いよそれ」とからかわれた。
が、彼には申し訳無くも、次もあった!
せっかく春なのだからと、週間天気予報も見守って、ふたりでドライブに行くことに決めた。
青空の広がった週末、僕が車を出して、I美さんが住むアパート付近のコンビニエンスストアで待ち合わせる。
I美さんの姿を見つけ、胸を躍らせて車を停める。
続けてI美さんが左のドアを開いて、流れは思わぬ方向に進んだ。
「お待たせー。待ったかな?」
「いえちょうど来、あいたっ」
I美さんは助手席に乗ろうとして、車の「ひさし」に頭をぶつけてしまったのだ。
「だ、大丈夫?」
僕が左手を突いて身を乗り出すと、立ったままI美さんは頭を抱えている。
「いたたたた……」
運転席から降りて回り込むと、I美さんはバッグを落としてしまっていた。
「大丈夫? 体を張ったダジャレみたいになってたけど」
「大丈夫です……」
I美さんは、照れたような笑いを見せてくれる。
I美さんが改めて助手席に座ってくれるのを見守った後、僕は運転席に戻った。
「星も舞わなかったし、コブもできてないです……」
とのことだが、I美さんの表情は曇っている。
「けっこう強くぶったの?」
「う~ん……」
車のボディーは金属だし、I美さんの打ち所も打ち所だ。予定に急いで従わなくていいだろう。
「しばらく安静にしようか」
改めて車を止めて、I美さんの様子を伺う。
「……私もう死にます」
「食べたいお菓子が冷蔵庫に残ってるんじゃない」
さすがに冗談だろうので冗談で返し、僕は、頭を打ったときに関する情報をスマートフォンに求め出す。
「すみません、私トロくさくて……」
「全然いいよ……僕も、頭を車にぶつけたことあるから」
「……Rさんもですか?」
「昔社用車で、急いでた時に一回ね……心の中で始末書を書いて、それからは左手を車の天井に添えてくぐるか、腰から入るようにしてる」
「……」
「みんな、失敗しては改める毎日なんだろうね」
……なるほど。話しつつ見つけた情報と比べて、I美さんは、嘔吐だのけいれんだのは普通に免れられている。さらに応急聞き取りを試みる。
「ネットで見つけたとおりに聞いていい? I美さん、ここがどこだか分かるよね?」
「愛知県名古屋市瑞穂区……コンビニの駐車場」
「うん。ものが二重に見えたりは?」
目をぱちぱちとして、首も少し動かす。
「……大丈夫です」
「手足はしびれてない?」
「……はい」
「頭痛、吐き気はどう?」
「……私が心配性なのかもしれないです。心配のせいで、気分がよくないのかな……」
瞳孔の確認は、踏み込みかねた。全日安静にすべきだという情報も見えている。
考えは、定まった。
「さっきは茶化して本当にゴメン。心配も晴らせるから、今から病院へ行こうか? 幸い土曜日だから開いてるし、I美さんをひとりきりのアパートに帰しても心細いだろうし」