ヤマト航海日誌8
2025.2.1 引っ込みがつかないことを言うと引っ込みがつかない話
久しぶりのヤマト航海日誌である。とは言っても『敵中』の執筆再開は当分先となりそうなのだが、楽天で長く休止していたブログを再開するにあたってここにも何か書いて出そうと考えた次第だ。
でもって今後は一回毎に〈本〉としていくのをやめ、ログを重ねて行く形に戻そうと考えているのだが、そのリニューアル1回目としてちょっと前の話になるが『ゴジラ-1.0』について書こうと。新日誌の劈頭をこの映画で飾れるのをおれは無上の喜びとするものである。
思えばおれは山崎貴をずいぶん悪く書いてきた。悪く書いたがちょっとだけよく書いたこともあった。山崎貴はゴジラを撮れよと。庵野よりはいいのができると。『リターナー』はおれに子供がいたならば見に連れてってやりたいと心から思う映画だった。だから山崎ならばというのをちょっと書くだけは書いていた。
その同じところにひとつ、こんなことも書いていた。「戦車もヘリも敵わなかったゴジラにデコトラが挑む! ああ見てえなあ、そんなゴジラ。そんなゴジラなら見てえなあ」と。そうだ。おれが見たいゴジラ映画があるとすればそんなのだった。
そしてそんなもの絶対に作られるわけがないと考えていた。けどね、ちょっとだけ思ってもいたのだ。だから山崎貴ならばもしもと。堤真一が「うおお」と雄叫び上げながら三輪トラックでゴジラに向かい突っ込んでいき、その荷台で吉岡秀隆がわんわん泣きながら大砲よりもなぜかゴジラに有効なペンのようなものを振り回す。それを小雪が遠くから「あれがサムライよ! あれでこそ不可能が可能になってくるのよ!」と叫んで見守るような、そんなゴジラが撮れるのでないかと。おれとしては子供向け映画のつもりでいたのだけれど、思ってたんだよ。読めばわかるだろ。ちょっと期待すらしていたんだよ。
しかしまさか、あれほどのことをやってくれるとは……ええ、もちろん『-1.0』です。主人公らがオンボロの小船でゴジラに挑むシーンのことです。あれこそが真のサムライの映画。おれが見たかったゴジラなのです。
そしてそれを超えるものです。楽天の帝銀ブログでおれは書いています。女の子画の話だったが、あるもののファンがどんなものを求めているかを頭でなく心臓の鼓動を司る神経の束で掴み取り骨の髄にまで染み込ませたうえで〈その上をゆくもの〉を出す。そうでなければ評価されないと。昭和の戦後で二年もすると日本画を求める欧米人にそれができる絵描きだけが認められ、最初は一枚10ドルだったのが百ドル、千ドル、いや一万ドル出してもいいぞ!なんてことになってたのでないかと。
それと同じだ。自分が欲しいのはこうでありもし出来たら最上だろうがまさか誰にも作れまいとばかり思ってたのが、魂の要求値を満たすどころか大きく超えるものを出されてしまったら「参りました」とヒレ伏すしかない。今まであなたを悪く言ってきて申し訳ありませんと地に手をついて謝るしかない。
それだけじゃねえ! クライマックスの主人公の戦いときたらこれもおれが日誌に書いた〈パチンコ ガッチャマン対ゴジラ〉のスーパーリーチまんまじゃねえか! そして全体のストーリーはおれがもともと書きたかったものと述べた[どっかの飛行場に四機目のタイガーシャークがあって、高速道路から無理矢理飛ばして「頼むぞ、街を救えるのはお前だけだ!」と言うようなやつ]まんまじゃねえか! 誰かがおれのヤマト日誌を盗んでどっかに出したもんを山崎が読んだんじゃねえだろうな。次は〈ゴジラ1968:世界が揺れた年〉といって、F-4ファントムが束になっても勝てぬゴジラにデコトラが挑む話をやる気なんじゃねえだろうな。
と思いたくなるほどのものだが、まさかなあ。おれが出すものを盗んだやつにそれをまた盗んでたやつはかなり前からいたはずだが……。
まあもしそうであったとしてもあれができるならくれてやるよ。『-1.0』はおれの生涯のベスト1に認定する。実はまったく期待してなく映画について知ろうともせず、54年より前の話という以外に何も知らん状態で去年11月のテレビ放映を見たのだったが、始まってすぐのところで「これは本物かも」と感じた。
いや、というか〈零〉を見た時は「またゼロ戦かよ」と思ったのだが、その後だ。それがなんだか小島の飛行場に降りようとしている。
それを見た瞬間に「え?」と思った。重いコンダラもないところで人が足で踏み固めたもんとわかる滑走路で、爆撃の跡か何かの穴も見える。それは当時のあの手の島の飛行場はみなそうだったというのはわかるがしかし……。
でもあそこに降りるのか、というところで「これは」という予感を覚えた。そうだ。着陸がすべてなのだ。
『永遠の0』はひどかった。最初の空母の着艦シーンでこれは永遠の0点男野比のび太の話とわかり、そんなもんはダメなのだけどやはりそういうもんとわかった。
というのを前に書いたけど、しかしこれは違うのだ。着陸がああ描けるならむろん違うに決まっている。主人公は『ガンバの冒険』の忠太であり、ゴジラは白イタチのノロイだった。映画の最初の30分はノロイから逃げた忠太のドラマだ。それがやがてヨイショとガクシャとやたらに威勢だけはいい頑張り屋だけどボーボーとしたやつと出会って船に乗るのだ。これが30分の間ひたすら泣かず見れるものか。
まさか〈忠太の冒険〉で来るとは、という、これだけでこの映画が大傑作と決まったようなものであるが、おれがギャレスなんとやら版をダメと言うのはここがダメだからである。あの映画の主人公は『アルマゲドン』のシャープ大佐みたいなもんで、シャープ大佐は途中でどんぶりを取り出してごはんを山盛りにするからいいけどしかし主人公ではない。ギャレスのやつは主役だけれど画面の中で目立ってるだけの狂言回しに過ぎず、最後までごはんをどんぶりに盛らない。
だからシャープ大佐でもない。ダメだ。アルマゲにはもうひとりなんかいたろう核爆弾の取り扱い係というのが。あれだ。あれが主役のアルマゲ。そんなのおもしろいわけないだろ。だからギャレス版『ガッズィラ』はダメなのである。
主人公は軍の爆弾取り扱い士。話の最初の30分はそれの父親が主役であって、NHKの帝銀ドラマで大沢たかおが演じていた松本清張みたいなオヤジが狂った調子でシーラカンスが生きていたからネス湖のネッシーも生きているとか、エルビス・プレスリーも生きているとか、下水道でワニも生きてるみたいなことをえんえんとまくしたてる。主人公はうんざり顔でそれを見ているだけのドラマ。
そんなもんはネズミも食わねえ! だからダメというのである。その後に渡辺謙が演じる学者と会うわけだけど、これがまたNHKの帝銀番組に保阪正康のやつが出てきて、
「清張の推理というのはとにかく帰納的なんですね。だから具体的で隙がない。帝銀事件のGHQ実験説も完璧ですが、伊東律の事件などはそれまで迷宮入りしていたものが清張が[ここを捜せ]と書いたとこから証拠が出てきて解決してます。そして朝鮮戦争の謀略論。あまりに大胆な推理なためにボクも疑うほどだったんですが、清張の死後にやっぱり正しかったと判明しました」