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狂犬病をうつされたけど私は大丈夫

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インドのムンバイから飛行機に乗り、タイのバンコクで乗り継いだ。
薄紫色の夕暮れ時、飛行機は日本の空港に着陸した。ドスンというショックで    猫のミーコがニャーと甘い声を上げた。
 四年ぶりの日本、帰りたくない日本。ミーコを抱き上げて税関に行くと動物検疫所のブースに行くように指示された。取調室のような狭い部屋で、ボブヘヤーの小柄な女性の防疫官が対応した。そして狂犬病予防法という法律により、猫には百八十日間の隔離検疫があり空港に留め置かれることを告げた。
「えー! それはだめです。だって自分はやりたいことを捨てたんです。やりたいことは何も無いんです。なりたいものも無いんです。ぜーんぶを捨てるかわりに、したくないことはしない。それが私のたったひとつのルールなんです」
「何も書類が無いというのは困りましたね。前もって、手続きをしていれば、良かったのですが、これは法律で決まっていることですから百八十日間の隔離検査へのご協力をお願いします」
「私は協力しません」
「社会のルールですのでよろしくお願いします」
「じゃあ聞きますが、社会が私を幸せにしてくれたことがありますか? 」
「罰則規定もあります。どうかご協力をお願いします」
「ご勝手にどうぞ! 」
 私はミーコを抱き上げてにっこり笑い、事務所を出ようとした。防疫官が腕を拡げてドアの前に立ちふさがった。
「どうか、席にお戻りください」と言われた。
 書棚のステーショナリーからハサミを取ると、女性防疫官の眼を刺した。
「警察を呼んでください! ああ! 」
 眼を押さえ彼女はゆっくりと倒れた。私はドアを開け事務所を出た。防犯ベルが鳴り始めた。空港駅に向かってゆっくりと歩いて行った。当たり前のことをしただけだと自分に言い聞かせて。
 駅のホームで二人の警察官にいきなり両側から腕を掴まれた。ものすごい力で全く動けなかった。警察官は私に手錠をかけると無線で報告した。
「午後八時三十分、刃物を持った容疑者を確保しました! 」
 大きな声だったので周りは黒山の人だかりになった。
 私は抵抗も抗議もしなかった。ミーコは動物検疫所に連れて行かれた。
 取調室で簡単な事情聴取を受けた後に何もない殺風景で清潔な部屋に連れて行かれた。
 その場所で私はいつもの空想の世界に入っていった。そこにはミーコがいた。今まで生きてきて自分のことを肯定してくれるのはミーコだけ。

 私が幼いころ、私の母親は、完璧を達成できない私を責めたてた。脱いだ衣服のたたみ方、顔の洗い方、髪の毛の整え方、人へのあいさつ、靴下の履き方、そして様々な癖をなくすこと。私は一人になると自分の顔や髪の毛をいじりながらぼーとすることが増えて行った。小学校でも周りの人間から人と違う行動を徹底的に指摘され、目が細くてキツネみたいで顔が怖いとからかわれた。靴を隠されたり弁当を盗まれたりした。教師に訴えても無視された。ピアノ、水泳など習い事が多くて友人と遊ぶ暇は無く、テレビを見ることも禁じられているのでクラスメートとの共通の話題はなかった。歯車が一つ一つ狂って行く感じがした。
 私はこの街に一日も早く原子爆弾が落ちますようにと毎日祈っていた。中学校の時、同じように孤立していた同級生が自殺した。
「次は貴方の番よ」という言葉を残して。
 つらくなって数日間学校を休んだら、父親に言われた。
 なんで普通にできないんだ。お前の人生はもう終わったんだな。
 今まで私を認めてくれたのはミーコだけ。だから人間よりもミーコ優先。
 ミーコ、ミーコ、ミーコ。
 万が一ミーコが死んでも、私の想念の中でミーコは永遠に生き続ける。

 翌朝、食事が提供されたあと、警察署に移送されて事情聴取が再開された。久しぶりの味噌汁で機嫌が良くなった私は隠すことなど何もないので淡々としゃべった。
 眼を怪我した防疫官から電話があった。警察官の監視の下で通話が認められた。
「あなたの猫のことについてご相談があります」
「猫と言わないでください。ミーコと言ってください」
「ミーコちゃんに餌をあげて、よろしいでしょうか。それと有料になりますが管理委託契約を結んでください」
「餌はあげてください。契約はしません。お金は払いません」
「今現在、国家予算からではなくて、私の給料から餌代を出しています」
「ありがとうございます。それだけです」
「私は涙腺が破壊されて一生元に戻りません。一時間おきに目薬を差さないと眼が乾いて激しい痛みがあります。視力も低下しました。狂犬病で死ぬ人が無くなるように検疫の仕事をするのがそんなにひどいことなんですか? 人の命を守ることが悪いことですか? 病気で死ぬ人が減るように働いているだけなのにあなたは自分の幸せだけを考えて、犯罪までやりました。なぜなのか教えてください」
「言ったはずです。社会を恨んでいると。社会が傷つくのは、私にとっては喜びです」
「あなただってミーコちゃんだってそして私だって社会の一員ですよ。私は転勤が多いから友人がいません。私は故郷を遠く離れて、結婚を諦めて動物検疫所で働いています。人が大切にしている動物に制限を加える仕事だから嫌がられて、ありがとうと言われることはありません。夜七時以降は一人勤務で一般客の暴言に対処しています。残業も多くてストレスも多くて不健康になり、無能な上司の尻拭いと同僚の個人攻撃で何の楽しみもありません。それでも誰かがやらないといけないことだからやっているんです。みんな我慢して生きているんです。それが普通の社会人なんです。あなたは社会を受け入れないことであなた自身とミーコちゃんをひどい目に合わせているんですよ」
「ひどい目に合わせているのはあなたたち動物検疫所です」
「社会のルールを守るのはそんなに難しいこととでしょうか? 前もってワクチン接種をして正規の手続きをしていれば、隔離検疫期間を無くすことができたんです。その日のうちにミーコちゃんを連れ帰ることができたのです。あなたはただ面倒なことから逃げて責任を転嫁しているだけです。それからご自分は狂犬病のワクチン接種をしているんですか? していないなら暴露後接種というものをお勧めします。もし感染していたら大変ですよ」
 防疫官は興奮して早口でしゃべった。
「自分の不幸を目的にしている人が幸福な人間を蔑み、陥れるのはやめてください。自分が幸せになってから他人への幸せを提案してください」
「じゃあ、あなたの目的はなんですか? 」
「もちろんニルヴァーナです」
「そんなことよりご自身の命でしょう。もしご自分が狂犬病に感染していたらどうするんですか?」
「法律の前提になるものは憲法です。それが立憲民主主義です。憲法の前提になるものはルソーのいう自然法であり、モンテスキューのいう自然本性です。動物を愛するということは自然であり、憲法の基本です。動物検疫所は憲法違反です」
「言っている意味がわかりません」
「愚か者は永遠にわからないままでいてください」
 私は通話を一方的に切った。