夢幻空花なる思索の螺旋階段
――ふつふつふつ。
――ふつふつふつ。
…………
…………
頭痛
私は、脊髄が痺れ、脳髄の芯が麻痺するが如く我慢ならない頭痛にしばしば襲はれるが、しかし、この異常にも思へる頭痛は、此の世に私が確かに存在してゐる事の呻きのやうに思へ、私はこの異常な程の苦痛を伴ふ頭痛を偏愛してもゐる、或る種Masochist(マゾヒスト)なのだらう。勿論、脳波やらCT-Scanやら病院で徹底的に頭痛の原因を精査したが、現代医学ではその原因すら皆目解らず鎮痛剤を処方されて仕舞ひである。
頭痛の時は睡眠時に既に私はそれを感知してゐるらしく何とも不思議な夢ならざる夢もどきの虚ろに移ろい行く支離滅裂な表象のSlow motionに何やら不安を感じて覚醒するが、成程、頭痛かと何時も覚醒時に合点するのが常であつた。さうして私は布団の中に暫く横たはつたまま脳髄の芯から発してゐるであらうその頭痛を我慢しつつも或る種の快楽の中に溺れてゐる自身をじつと味はつては
――吾、此処に在り!
と感嘆の声を胸奥で独り叫ぶのであつた。さうした後に徐に立ち上がり途轍もなく濃い珈琲を淹れ、気休めにその途轍もなく濃い珈琲を一杯出来るだけ早く飲み干すのである。それでも異常な頭痛は治まる筈もなく、しかし、途轍もなく濃い珈琲の御蔭で鮮明になつた意識は頭蓋内の闇に手を突つ込むが如くに私の内部で増大しつつある不安を手探りで探し出してはその不安を握り潰して、更に頭痛の苦痛といふ快楽に溺れるのであつた。
――吾、此処に在り!
その数十分の時間は胸奥で快哉を上げる或る種至福の時間でもあつたのだ。普段であれば鎮痛剤を飲んでそのまま通勤し、一日中その頭痛と格闘しながら仕事に励むのであるが、それが休日であれば、私は鎮痛剤は飲まずひたすらその異常な頭痛の狂おしい痛みといふ快楽に溺れ続けるのが常であつた。間歇的に胸奥で叫ぶ
――吾、此処に在り!
といふ快哉は頭痛の苦痛に苛まれながらも爽快なのである。不安といふ快楽は私にとつて麻薬同然のものなのかもしれない……。この不安と快楽とに大きく振幅する私の意識の状態は何やら私といふ《存在》を揺すつてゐるやうに思われ、さうして揺すつてゐる《存在》から、例へば
――許し給へ。
等といふ言質を取れればもう私の喜びは言はずもがなである。それは私を悩まし続ける《存在》といふ観念をふん縛つて持国天の如くその《存在》を邪鬼の如くに踏み付ける憤怒の形相の《吾》を想像する快楽である。とは言へ、それは一時の妄想に過ぎない。狂おしい頭痛は休む事を知らず、直ぐ様私を襲ひ
――へつ、阿呆の戯言が!
と私の内部でさう発する声に私は一瞬で打ちのめされるのであつた。さうやつて私は日がな一日絶望と歓喜の間を振幅しながら独り己といふ《存在》と格闘するのであつた。
――吾、此処に在り!
…………
…………
――其、《存在》を吾ふん縛る!
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…………
――へつ、阿呆の戯言が!
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考へる《水》 五 ‐ 『円柱、また、塔』
エジプトやギリシア、そしてイタリア等の古代遺跡跡に今も立つ円柱を思ふと巨大な石造りの建造物が権力や富の象徴として君臨してゐたことが窺ひ知れるが、さて、其処でその巨大な石造物を支へてゐた円柱群の林立する写真等を目にすると、其処に人間の浅墓さと共に何やら構築せずにはゐられない人間の性のやうなものが去来する。
地に屹立する円柱群。そして、その上にあつたであらう石造りの豪奢な天井若しくは人工天上。それら円柱群が時空間を人間の思ひのままにぶつた切り人造の絢爛豪華な時空間を支へる円柱は、その淵源を辿ると母胎を支へる子宮に通ずるやうに思へるのだ。つまり、地に屹立する円柱の長さ分、神の坐す天上界を人間界にずり下げ、母胎内で無意識に思ひ描いてゐたであらう理想郷を人間は築かずにはゐられないのだ。それは正に泡沫の夢である。何故ならば円柱が地に屹立する遺跡の写真は建築物が永遠のものではなく《崩壊》した事を如実に示してゐる。それはまるで、人間もまた何時までも子宮内に留まれずに此の世に出生させられるのと同じやうに……。それは何とも儚く諸行無常といふ言葉を思ひ起こさせるのである。
――さて、自然もまた自己崩壊する運命にあるのであらうか……。
ところで、建造物は何時の世も人間が思ひ描く《宇宙》の縮図である。私にとつて今のところ最高の《宇宙》の縮図は私の幼少時の私の祖父母の家である。それは茅葺屋根の家であつたが其処にゐる心地良さは今もつて味はつたことのない至福の時間であつた。そして、もう一つ《宇宙》の縮図を挙げればそれは法隆寺の五重塔である。カフカが生きてゐた迷宮のやうなプラハやブダペストなどオーストリア・ハンガリー帝国の都市を除くと石造りの西洋の街はどうも私の性に合はないが、木造建築で現存する最古の法隆寺の五重塔は諸行無常にあつて何やら微かではあるが恒常不変にも通じる深遠なる何かを指示してゐるやうで、私は五重塔を見る度に感慨に耽るのである。
さて、法隆寺の五重塔や建築については後の機会に譲るとして、しかし、塔と言へば私は即座にノーベル文学賞受賞者でアイルランドの詩人兼劇作家のイェーつの「塔」といふ作品が思ひ起こされるのである。それは螺旋にも通じるものでそれはまた後の機会で改めて取り上げるとしてイェーつの「塔」はかうである。
W.B.Yeats作
「The Tower」
I
WHAT shall I do with this absurdity -
O heart, O troubled heart - this caricature,
Decrepit age that has been tied to me
As to a dog's tail?
Never had I more
Excited, passionate, fantastical
Imagination, nor an ear and eye
That more expected the impossible -
No, not in boyhood when with rod and fly,
Or the humbler worm, I climbed Ben Bulben's back
And had the livelong summer day to spend.
It seems that I must bid the Muse go pack,
Choose Plato and Plotinus for a friend
Until imagination, ear and eye,
Can be content with argument and deal
In abstract things; or be derided by
A sort of battered kettle at the heel.
II
I pace upon the battlements and stare
作品名:夢幻空花なる思索の螺旋階段 作家名:積 緋露雪