審問官第二章「杳体」
審問官第二章「杳体」
積 緋露雪著
目次
審問官 第二章「杳体」
出会ひ
『The Marriage of Heaven and Hell』
『天国と地獄の婚姻』
「悪魔」の声
記憶に残りし幻想
地獄の諺
記憶に残りし幻
記憶に残りし幻
記憶に残りし幻
対立が本当の友情なり
記憶に残りし幻
「自由の歌」
「合唱」
審問官 第二章「杳体」
出会ひ
私が勢いよくさっとその喫茶店の手動式のドアを開けると、
――カランコロン
と呼び鈴が鳴ったのであった。
私はLady first(レデイ・ファースト)を気取って雪を先に喫茶店内へと招き入れ、その後に続いて私がその喫茶店へ入ったのであった。
その喫茶店の店内は、店内全体を照らす照明は仄暗く抑へ気味であったが、各席に置かれた照明が皓皓と輝いてゐて、そして、店の造りは何処か山小屋を思はせる木造の内装が、奇妙に落ち着いた雰囲気を醸し出してゐたのであった。
私は、その仄暗い店内をぐるりと眺め回し、君達が陣取ってゐた席を見つけると、無意識に雪の手をぎゅっと握り、その席へと歩き始めたのであった。ぎゅっと握って、
――あっ。
と、思ひ、それにしても雪の手は仄かに温かく、しかし、夏の高温に対しては何処かひんやりとしてゐて、それは冷暖房がガンガンに利いた室内は大の苦手に違ひないと、その雪の手の感触から直感的に感じ取りつつも、それに構はず、私は雪の手を引きながらつかつかと君達が陣取ってゐた席へと一直線に歩を進めたのであった。私と雪に最初に気が付いたのは甲君で、
――やあ、杳体御仁。やっとご登場かい。
と、言ふと、乙君、丙君、丁君、そして君がそれぞれの本から顔を上げて、私と雪とを見たのであった。
そして、君たちと雪はお互ひに自己紹介をし、それを早々に済ませると、私と雪は相並んで末席に着席したのであった。そして、雪が、
――あの、杳体御仁とは一体全体何の事でせうか?
すると、甲君が、
――何ね、彼が呪文の如く唱へる《存在》へ対しての、つまり、カント曰く処の「物自体」のやうなものかな。
――えっ、杳体が「物自体」? まだ私には解かりませんわ。
――ええっと、雪さんは埴谷雄高の『死靈』を読んだことがありますか?
――ええ。
――彼によると、埴谷雄高の自同律の不快から発した「虚体」では生(なま)温(ぬる)く、その虚体をも呑み込む《存在》の有様が必ずあるに違ひなく、そして、《存在》はその有様、つまり、彼が言ふ《杳体》をもってして、此の宇宙の転覆を絶えず志向する、まあ、そんな処かな。
と、甲君は言ったのである。
甲君は画家志望で熱狂的にヴァン・ゴッホを崇拝する、所謂、「ヴァン・ゴッホ気狂(きちが)ひで、甲君は絵画といふ手段で何とかこの世界を認識し尽くし、己が納得する世界認識法を何としても手に入れる為に試行錯誤を繰り返してゐる青年なのであった。
――「虚体」をも呑み込む《存在》の有様? まだ私にはよく解からないのですが?
――何、彼本人が《杳体》と名付けたはいいが、未だ道半ばで、よく解かってゐないんぢゃないかな。
すると、雪は私へと顔を向けて、
――ねえ、《杳体》って何?
と、「黙狂者」の私へ尋ねたのであった。
すると、私はNoteを取り出して、
――つまり、虚無、若しくは、つまり、此の頭蓋内の闇の脳といふ構造をした、つまり、《五蘊場》にぽっかりと空いた虚空から、つまり、不意に顔を突き出して、つまり、『ほら、私を捕らへてみな!』と、つまり、皮肉たっぷりに言ひ残して、つまり、再び虚無、若しくは《五蘊場》の虚空へ、つまり、直ぐ様消えて、ところが、つまり、杳としてその《存在》を明かさない《杳体》は、つまり、ぢっと私の振る舞ひを凝視し、つまり、嘲笑ってゐる得体の知れぬ杳とした《何か》の事さ。
――つまり、それは例へば物質に反物質があるやうに、《存在》にも《反=存在》と名付けられる《もの》があるその《反=存在》と同じ様態の《もの》といふ意味と解していいのかしら?
――否、つまり、《杳体》は《反=存在》すらも呑み込んだ、つまり、《新=存在》の仮初の、つまり、若しくは仮象の姿さ。
――《新=存在》? あなたは此の現在にある《存在》の仕方を根本から転覆、若しくは真っ逆様に逆立ちさせるつもりなのね。
――つまり、ああ。
――でも、それを世界は今の処嘲笑ってゐるとしかあなたには認識出来ない杳として得体の知れぬ《何か》が、これって変な言ひ種だけれども、必ず《存在》してゐるといふ事ね?
――オイラーの公式が杳体御仁の言ふ《杳体》論の今の処命綱なのさ。
と、数学を専攻してゐながらヰリアム・ブレイク好きの乙君が口を開いたのであった。
――オイラーの公式と言ひますと?
――つまり、ネイピア数と呼ばれる数字をeとすると、e = 2.71828 18284 59045 23536 02874 71352 …と定まり、このネイピア数を使ふと、オイラーの等式、即ち、
が成立する。これは物理数学では最も重要な公式の一つでね、杳体御仁の彼はそのオイラーの公式をして、虚数iのi乗はオイラーの公式を使へば、【iのi乗】=【(ネイピア数eのi×π/2)のi乗】、つまり、eの-π/2乗、即ちiのi乗は0.2078795……といふ実数になり、虚数だった《もの》がその正体を現はす、といふ事が、彼の言ふ処の《杳体》の何かを暗示してゐると彼は考へてゐる。まあ、とんだ素人考へだがね。
と乙君が言ふと、
――虚数iのi乗は実数? それは面白いですわ。
――さうすると、埴谷雄高が全人生をかけて追ひ求めた《虚体》は、オイラーの公式を無理矢理にでも汎用すると、《虚体》は虚数iから発想されたものではなく、オイラーの公式
を《虚体》の何かを表象してゐる何かだと看做すと、《虚体》が実体へと相転移する何かと看做せるだらう?
――また、数学の知識をひけらかして、雪さんを煙に巻く気かね、乙君?
と、丙君が口を挟んだのであった。
――はっ、猊下殿。申し訳ありません。
とおどけて乙君が丙君に言ったのであった。丙君は皆から「猊下」と綽名され、さう呼ばれてゐる、将来雲水、そして、僧になるつもりの青年なのであった。
――私に言はせれば、オイラーの公式も夢幻空花(むげんくうげ)な《もの》でしかない。
と丙君は言ったのであった。
――ちぇっ、猊下は全て否定しないと気が済まないからな。
と乙君が言ふと、そこで雪が、
――あの、オイラーの公式、
って面白い公式ですね。
――あの、雪さんの専攻は?
と乙君が訊いたのであった。
――西洋哲学です。
――西洋哲学の中でも何を?
――実存哲学を。
――へえ、脱構築とかポストモダンではなく?
――ええ、私、脱構築もポストモダンも、結局のところ、何も語ってゐない、哲学とは言へない代物にしか思へないのです。
と、今度は君が雪と話し始めたのであった。
――ところが、私、西洋哲学には飽き飽きして、今は、印度哲学か仏教哲学かに専攻を変へようかと考えてゐるのです。正直申して、西洋哲学、つまり、一神教下の哲学がつまらないのです。
審問官第二章「杳体」
積 緋露雪著
目次
審問官 第二章「杳体」
出会ひ
『The Marriage of Heaven and Hell』
『天国と地獄の婚姻』
「悪魔」の声
記憶に残りし幻想
地獄の諺
記憶に残りし幻
記憶に残りし幻
記憶に残りし幻
対立が本当の友情なり
記憶に残りし幻
「自由の歌」
「合唱」
審問官 第二章「杳体」
出会ひ
私が勢いよくさっとその喫茶店の手動式のドアを開けると、
――カランコロン
と呼び鈴が鳴ったのであった。
私はLady first(レデイ・ファースト)を気取って雪を先に喫茶店内へと招き入れ、その後に続いて私がその喫茶店へ入ったのであった。
その喫茶店の店内は、店内全体を照らす照明は仄暗く抑へ気味であったが、各席に置かれた照明が皓皓と輝いてゐて、そして、店の造りは何処か山小屋を思はせる木造の内装が、奇妙に落ち着いた雰囲気を醸し出してゐたのであった。
私は、その仄暗い店内をぐるりと眺め回し、君達が陣取ってゐた席を見つけると、無意識に雪の手をぎゅっと握り、その席へと歩き始めたのであった。ぎゅっと握って、
――あっ。
と、思ひ、それにしても雪の手は仄かに温かく、しかし、夏の高温に対しては何処かひんやりとしてゐて、それは冷暖房がガンガンに利いた室内は大の苦手に違ひないと、その雪の手の感触から直感的に感じ取りつつも、それに構はず、私は雪の手を引きながらつかつかと君達が陣取ってゐた席へと一直線に歩を進めたのであった。私と雪に最初に気が付いたのは甲君で、
――やあ、杳体御仁。やっとご登場かい。
と、言ふと、乙君、丙君、丁君、そして君がそれぞれの本から顔を上げて、私と雪とを見たのであった。
そして、君たちと雪はお互ひに自己紹介をし、それを早々に済ませると、私と雪は相並んで末席に着席したのであった。そして、雪が、
――あの、杳体御仁とは一体全体何の事でせうか?
すると、甲君が、
――何ね、彼が呪文の如く唱へる《存在》へ対しての、つまり、カント曰く処の「物自体」のやうなものかな。
――えっ、杳体が「物自体」? まだ私には解かりませんわ。
――ええっと、雪さんは埴谷雄高の『死靈』を読んだことがありますか?
――ええ。
――彼によると、埴谷雄高の自同律の不快から発した「虚体」では生(なま)温(ぬる)く、その虚体をも呑み込む《存在》の有様が必ずあるに違ひなく、そして、《存在》はその有様、つまり、彼が言ふ《杳体》をもってして、此の宇宙の転覆を絶えず志向する、まあ、そんな処かな。
と、甲君は言ったのである。
甲君は画家志望で熱狂的にヴァン・ゴッホを崇拝する、所謂、「ヴァン・ゴッホ気狂(きちが)ひで、甲君は絵画といふ手段で何とかこの世界を認識し尽くし、己が納得する世界認識法を何としても手に入れる為に試行錯誤を繰り返してゐる青年なのであった。
――「虚体」をも呑み込む《存在》の有様? まだ私にはよく解からないのですが?
――何、彼本人が《杳体》と名付けたはいいが、未だ道半ばで、よく解かってゐないんぢゃないかな。
すると、雪は私へと顔を向けて、
――ねえ、《杳体》って何?
と、「黙狂者」の私へ尋ねたのであった。
すると、私はNoteを取り出して、
――つまり、虚無、若しくは、つまり、此の頭蓋内の闇の脳といふ構造をした、つまり、《五蘊場》にぽっかりと空いた虚空から、つまり、不意に顔を突き出して、つまり、『ほら、私を捕らへてみな!』と、つまり、皮肉たっぷりに言ひ残して、つまり、再び虚無、若しくは《五蘊場》の虚空へ、つまり、直ぐ様消えて、ところが、つまり、杳としてその《存在》を明かさない《杳体》は、つまり、ぢっと私の振る舞ひを凝視し、つまり、嘲笑ってゐる得体の知れぬ杳とした《何か》の事さ。
――つまり、それは例へば物質に反物質があるやうに、《存在》にも《反=存在》と名付けられる《もの》があるその《反=存在》と同じ様態の《もの》といふ意味と解していいのかしら?
――否、つまり、《杳体》は《反=存在》すらも呑み込んだ、つまり、《新=存在》の仮初の、つまり、若しくは仮象の姿さ。
――《新=存在》? あなたは此の現在にある《存在》の仕方を根本から転覆、若しくは真っ逆様に逆立ちさせるつもりなのね。
――つまり、ああ。
――でも、それを世界は今の処嘲笑ってゐるとしかあなたには認識出来ない杳として得体の知れぬ《何か》が、これって変な言ひ種だけれども、必ず《存在》してゐるといふ事ね?
――オイラーの公式が杳体御仁の言ふ《杳体》論の今の処命綱なのさ。
と、数学を専攻してゐながらヰリアム・ブレイク好きの乙君が口を開いたのであった。
――オイラーの公式と言ひますと?
――つまり、ネイピア数と呼ばれる数字をeとすると、e = 2.71828 18284 59045 23536 02874 71352 …と定まり、このネイピア数を使ふと、オイラーの等式、即ち、
が成立する。これは物理数学では最も重要な公式の一つでね、杳体御仁の彼はそのオイラーの公式をして、虚数iのi乗はオイラーの公式を使へば、【iのi乗】=【(ネイピア数eのi×π/2)のi乗】、つまり、eの-π/2乗、即ちiのi乗は0.2078795……といふ実数になり、虚数だった《もの》がその正体を現はす、といふ事が、彼の言ふ処の《杳体》の何かを暗示してゐると彼は考へてゐる。まあ、とんだ素人考へだがね。
と乙君が言ふと、
――虚数iのi乗は実数? それは面白いですわ。
――さうすると、埴谷雄高が全人生をかけて追ひ求めた《虚体》は、オイラーの公式を無理矢理にでも汎用すると、《虚体》は虚数iから発想されたものではなく、オイラーの公式
を《虚体》の何かを表象してゐる何かだと看做すと、《虚体》が実体へと相転移する何かと看做せるだらう?
――また、数学の知識をひけらかして、雪さんを煙に巻く気かね、乙君?
と、丙君が口を挟んだのであった。
――はっ、猊下殿。申し訳ありません。
とおどけて乙君が丙君に言ったのであった。丙君は皆から「猊下」と綽名され、さう呼ばれてゐる、将来雲水、そして、僧になるつもりの青年なのであった。
――私に言はせれば、オイラーの公式も夢幻空花(むげんくうげ)な《もの》でしかない。
と丙君は言ったのであった。
――ちぇっ、猊下は全て否定しないと気が済まないからな。
と乙君が言ふと、そこで雪が、
――あの、オイラーの公式、
って面白い公式ですね。
――あの、雪さんの専攻は?
と乙君が訊いたのであった。
――西洋哲学です。
――西洋哲学の中でも何を?
――実存哲学を。
――へえ、脱構築とかポストモダンではなく?
――ええ、私、脱構築もポストモダンも、結局のところ、何も語ってゐない、哲学とは言へない代物にしか思へないのです。
と、今度は君が雪と話し始めたのであった。
――ところが、私、西洋哲学には飽き飽きして、今は、印度哲学か仏教哲学かに専攻を変へようかと考えてゐるのです。正直申して、西洋哲学、つまり、一神教下の哲学がつまらないのです。
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪