小さなサムライそしてシュバリエ
私は南フランスでワイナリー農場を経営する日本人のシングルマザー。息子のガブリエルは五歳になった。栗色の頭髪がカールしていて淡いブルーの灰色の瞳をしている。愛称はガブ。
短くも厳しい夏が終わり、ブドウの葉が風で揺れるとかさかさと軽い音を立てるようになった。そんな肌寒くなり始めた秋の季節は収穫期を迎えて忙しい。保育園にガブを預けて事務所に出勤し、ホワイトボードの情報をマジックペンでキュキュッと音を立てて修正した。
倉庫に行って収穫の進行状況を確認してデスクに戻って山積みの書類を整理し、立ったままパソコンを起動していると、水色のワンピースを着たスリムで色白のアジア人女性が事務所に入ってきた。
コンニチワという日本語が聞こえた。
「ボンジュール、ヴゼットキ?(どなたですか?)」
「すみません、日本語でお願いします」
「え? あなた、誰?」
「十文字百合といいます。日本の原発の放射能に耐えられなくてここまで逃げてきたんです。どうか助けてください。お願いします」
「まあ、それはお気の毒に・・・・・・。でも、なんでここなんですか?」
「テレビ番組で見たのですが、ここでは人間が自然の中で自分らしく暮らすことができることがわかったので訪ねてきました」
「そういう意味じゃなくて・・・・・・。 でもまあ、遠いところをよくいらっしゃいました。いつまでここにいるの?」
「しばらくここに居させてください。なんでもしますから」
「困ったわね。うちの農場で雇ってあげてもいいけど、その代わりうんと働いてもらうわよ。近いうちにワーキングビザを取得してね」
しばらく自宅で一緒に暮らすことにした。倉庫に連れて行き、作業場にいた従業員たちに紹介した。
オリエンタルのヴィーナスだね、と若い彼女の容姿に男たちが色めき立った。
私は彼女にワイナリーの仕事を説明した。倉庫の中を見学させ、来客者向けのパネルを見せてた。
家に戻るとガブがもう保育所から戻っていて絵本を見ていた。ガブに彼女を紹介した。
「彼女はママと同じ日本人。優しいお姉さんだから安心して。まだフランス語に慣れてないから、ガブもフランス語を教えてあげるのよ」
「ボンジュール、アンシャンテ(こんにちは、初めまして)」
ガブは人見知りの傾向があり、私にじゃれついて照れていた。
三人で食料品を買いだしに行って自宅に戻った。彼女はフランス語を全く喋れない。いったい、どうやってこんな田舎町まで来ることができたのだろう。
自 宅での夕食は、バゲット、ラタトゥイユ、鶏肉のコンフィ、サラダ、そして うちの農場のワイン。彼女は美味しいと言って笑顔を見せた。
翌朝、ガブと作業服を着せた彼女をプジョーに乗せて県道を西に向かった。
気持ちよい青空が広がっていて今日も朝から巨大な発電所が青い空に向かって白い煙を盛大に噴き上げている。去っていく季節を追いかけるように煙が東に流れて行った。
保育所で子供を降ろし、農場でシェフ・ド・クロ(農場責任者)のマダムを紹介した。アルジェリア系の頼りがいのある大女だ。収穫、剪定、施肥、そして補修作業等の複雑なスケジュール作りは彼女に任せている。
私はシェフの説明をいちいち通訳し、麦わら帽子を彼女にかぶせて顎ひもをかけてやり、親指を立てて笑みを浮かべた。
「作業は単純だから見て覚えて。白いカゴはいっぱいになると二十キロくらいになるから、体力を考えてほどほどにね。白い大きなカゴはトラックの荷台に登ってお辞儀をするとざっと入っていくから。フランス語はスマホで変換すればわかるし、何かトラブルがあったら電話して。最初は大変だけど頑張ってね」
私は車で事務所に戻った。税金申告、労務管理、財務管理、そしてプレゼン資料の作成。経営者としてやることがたくさんある。ネゴシアン(仲買人)と信頼関係を築くことも大切だ。いいブドウを作ってネゴシアン=仲買人に評価してもらい、いい醸造家につないでもらう。最終的には自分の畑の名前のワインを売り出すことがワイナリー農家の夢だ。
六時過ぎになってトラックに乗った従業員と彼女が戻ってきた。収穫期の労働はきつい。残業もある。疲れた、と言って彼女は不機嫌そうにうつむいていた。
翌日の朝、彼女は朝起きてこなかった。もう少し寝かせてよ! と怒鳴り声をあげていた。私は子供を送ったあと、自宅に戻り、彼女を起こして朝食を取らせ、畑に送り届けた。家事も手伝わないし、気が利かなくて世話が焼ける。買物すらできない。子供が二人になったみたい。私は家でも夜遅くまで家で仕事をしているというのに。
彼女は次の日の朝も起きてこなかった。
この日、私はネゴシアンを倉庫に案内するため早く事務所に行く必要があった。収穫したぶどうを見せる重要な日なのだ。年によってぶどうの質も微妙に変わるから彼らのアドバイスを聞いて出荷時期や量を調整する必要もある。私は彼女を放置せざるを得なかった。
テーブルのパンを食べて自分で歩いて農場に行ってね、と置手紙を残して。
午後になって農場責任者から電話がきた。
「あの日本人娘をクビにしました! ご了承ください、社長!」
「うーん、遅刻は言って聞かせるからあと1回だけ様子をみてみない? うちも労働力が足りてないし、時給制だから損するのは向こうだし」
「でも、彼女は未熟なブドウをバケットに入れていたんです。何度注意をしてもやめないんです」
え! なんてことを!
私は顔色を変えた。ネゴシアンが来る日にそんなことをするなんて。
「適切な判断です。報告ありがとう、マダム」
彼女に電話をかけたが、つながらなかった。ネゴシアンとの会議を終えてから早めに自宅に戻った。
自宅から女の金切り声が聞こえた。
ドアを開けると彼女がガブを平手打ちしていた。
「やめて! ちょっと! 子供に何てことしてんの!」
「あんたが子供にかまけて車で送っていかないからクビになっちゃったじゃないの。どうしてくれるのよ!」
彼女は髪を振り乱して目を吊り上げて大声を上げていた。
私はすぐ子供に覆いかぶさり、外傷がないことを確認した。ガブはこんな理不尽な目に合っても、涙をこらえていた。
「よくがんばったわね。ちょっと隣の家に行っておいで」
息子は走ってドアから出て行った。
二年前、夫は農作業中の事故で亡くなった。私はこの人より完璧な人に会ったことはない。彼に教わったのは勇気と平常心のバランス、豊かなエスプリ、そしてフランス式ボクシングのサバット。彼の感情は常に揺るがず、人格に気品があった。ブドウの苗が育つのに三年、ワインが熟成するのに七年、彼は常に先を見ていたけど、成果を見る前にあの世に行ってしまった。納得のいくワインのボトルを手に笑っている姿を見てみたかった。ワインとガブを完成させるのが私の夢。ワインとガブは私のパッションでミッション。
私はときどきカブに言い聞かせていた。
「ガブは小さくてもサムライでシュバリエ(騎士)なのよ。だからディグニテ(尊厳)を大切にしなさい。それができないならガブはもうママの子供ではないのよ」
「ママこわい。ぼくむずかしくてわからないよ」
短くも厳しい夏が終わり、ブドウの葉が風で揺れるとかさかさと軽い音を立てるようになった。そんな肌寒くなり始めた秋の季節は収穫期を迎えて忙しい。保育園にガブを預けて事務所に出勤し、ホワイトボードの情報をマジックペンでキュキュッと音を立てて修正した。
倉庫に行って収穫の進行状況を確認してデスクに戻って山積みの書類を整理し、立ったままパソコンを起動していると、水色のワンピースを着たスリムで色白のアジア人女性が事務所に入ってきた。
コンニチワという日本語が聞こえた。
「ボンジュール、ヴゼットキ?(どなたですか?)」
「すみません、日本語でお願いします」
「え? あなた、誰?」
「十文字百合といいます。日本の原発の放射能に耐えられなくてここまで逃げてきたんです。どうか助けてください。お願いします」
「まあ、それはお気の毒に・・・・・・。でも、なんでここなんですか?」
「テレビ番組で見たのですが、ここでは人間が自然の中で自分らしく暮らすことができることがわかったので訪ねてきました」
「そういう意味じゃなくて・・・・・・。 でもまあ、遠いところをよくいらっしゃいました。いつまでここにいるの?」
「しばらくここに居させてください。なんでもしますから」
「困ったわね。うちの農場で雇ってあげてもいいけど、その代わりうんと働いてもらうわよ。近いうちにワーキングビザを取得してね」
しばらく自宅で一緒に暮らすことにした。倉庫に連れて行き、作業場にいた従業員たちに紹介した。
オリエンタルのヴィーナスだね、と若い彼女の容姿に男たちが色めき立った。
私は彼女にワイナリーの仕事を説明した。倉庫の中を見学させ、来客者向けのパネルを見せてた。
家に戻るとガブがもう保育所から戻っていて絵本を見ていた。ガブに彼女を紹介した。
「彼女はママと同じ日本人。優しいお姉さんだから安心して。まだフランス語に慣れてないから、ガブもフランス語を教えてあげるのよ」
「ボンジュール、アンシャンテ(こんにちは、初めまして)」
ガブは人見知りの傾向があり、私にじゃれついて照れていた。
三人で食料品を買いだしに行って自宅に戻った。彼女はフランス語を全く喋れない。いったい、どうやってこんな田舎町まで来ることができたのだろう。
自 宅での夕食は、バゲット、ラタトゥイユ、鶏肉のコンフィ、サラダ、そして うちの農場のワイン。彼女は美味しいと言って笑顔を見せた。
翌朝、ガブと作業服を着せた彼女をプジョーに乗せて県道を西に向かった。
気持ちよい青空が広がっていて今日も朝から巨大な発電所が青い空に向かって白い煙を盛大に噴き上げている。去っていく季節を追いかけるように煙が東に流れて行った。
保育所で子供を降ろし、農場でシェフ・ド・クロ(農場責任者)のマダムを紹介した。アルジェリア系の頼りがいのある大女だ。収穫、剪定、施肥、そして補修作業等の複雑なスケジュール作りは彼女に任せている。
私はシェフの説明をいちいち通訳し、麦わら帽子を彼女にかぶせて顎ひもをかけてやり、親指を立てて笑みを浮かべた。
「作業は単純だから見て覚えて。白いカゴはいっぱいになると二十キロくらいになるから、体力を考えてほどほどにね。白い大きなカゴはトラックの荷台に登ってお辞儀をするとざっと入っていくから。フランス語はスマホで変換すればわかるし、何かトラブルがあったら電話して。最初は大変だけど頑張ってね」
私は車で事務所に戻った。税金申告、労務管理、財務管理、そしてプレゼン資料の作成。経営者としてやることがたくさんある。ネゴシアン(仲買人)と信頼関係を築くことも大切だ。いいブドウを作ってネゴシアン=仲買人に評価してもらい、いい醸造家につないでもらう。最終的には自分の畑の名前のワインを売り出すことがワイナリー農家の夢だ。
六時過ぎになってトラックに乗った従業員と彼女が戻ってきた。収穫期の労働はきつい。残業もある。疲れた、と言って彼女は不機嫌そうにうつむいていた。
翌日の朝、彼女は朝起きてこなかった。もう少し寝かせてよ! と怒鳴り声をあげていた。私は子供を送ったあと、自宅に戻り、彼女を起こして朝食を取らせ、畑に送り届けた。家事も手伝わないし、気が利かなくて世話が焼ける。買物すらできない。子供が二人になったみたい。私は家でも夜遅くまで家で仕事をしているというのに。
彼女は次の日の朝も起きてこなかった。
この日、私はネゴシアンを倉庫に案内するため早く事務所に行く必要があった。収穫したぶどうを見せる重要な日なのだ。年によってぶどうの質も微妙に変わるから彼らのアドバイスを聞いて出荷時期や量を調整する必要もある。私は彼女を放置せざるを得なかった。
テーブルのパンを食べて自分で歩いて農場に行ってね、と置手紙を残して。
午後になって農場責任者から電話がきた。
「あの日本人娘をクビにしました! ご了承ください、社長!」
「うーん、遅刻は言って聞かせるからあと1回だけ様子をみてみない? うちも労働力が足りてないし、時給制だから損するのは向こうだし」
「でも、彼女は未熟なブドウをバケットに入れていたんです。何度注意をしてもやめないんです」
え! なんてことを!
私は顔色を変えた。ネゴシアンが来る日にそんなことをするなんて。
「適切な判断です。報告ありがとう、マダム」
彼女に電話をかけたが、つながらなかった。ネゴシアンとの会議を終えてから早めに自宅に戻った。
自宅から女の金切り声が聞こえた。
ドアを開けると彼女がガブを平手打ちしていた。
「やめて! ちょっと! 子供に何てことしてんの!」
「あんたが子供にかまけて車で送っていかないからクビになっちゃったじゃないの。どうしてくれるのよ!」
彼女は髪を振り乱して目を吊り上げて大声を上げていた。
私はすぐ子供に覆いかぶさり、外傷がないことを確認した。ガブはこんな理不尽な目に合っても、涙をこらえていた。
「よくがんばったわね。ちょっと隣の家に行っておいで」
息子は走ってドアから出て行った。
二年前、夫は農作業中の事故で亡くなった。私はこの人より完璧な人に会ったことはない。彼に教わったのは勇気と平常心のバランス、豊かなエスプリ、そしてフランス式ボクシングのサバット。彼の感情は常に揺るがず、人格に気品があった。ブドウの苗が育つのに三年、ワインが熟成するのに七年、彼は常に先を見ていたけど、成果を見る前にあの世に行ってしまった。納得のいくワインのボトルを手に笑っている姿を見てみたかった。ワインとガブを完成させるのが私の夢。ワインとガブは私のパッションでミッション。
私はときどきカブに言い聞かせていた。
「ガブは小さくてもサムライでシュバリエ(騎士)なのよ。だからディグニテ(尊厳)を大切にしなさい。それができないならガブはもうママの子供ではないのよ」
「ママこわい。ぼくむずかしくてわからないよ」
作品名:小さなサムライそしてシュバリエ 作家名:花序C夢