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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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嗤ふ吾

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嗤(わら)ふ吾

 何がそんなに可笑しかったのかてんで合点のいかぬ事であったが、私は眠りながら《吾》を嗤ってゐた自身を覚醒する意識と共に確信した刹那、ぎょっとしたのであった。
――嗤ってゐる! 
 その時私は夢を見てをらず、唯、《吾》といふ言葉を嗤ってゐたのであった。
――《吾》だと、わっはっはっはっ。
 頭蓋内の闇を、唯、《吾》といふ言葉が文字と音節とに離合集散を繰り返しながら旋回してゐたのであった。
――《吾》といふ言葉に嗤ってゐやがる。
 眠りながら嗤ふ吾を見出したのはその時が多分初めてではないかと思ふのであったが、しかし、《吾》といふ言葉が闇しか形象してゐないこの状態をどう受け止めて良いのか皆目解からず、私は暫く呆然としてゐる外なかったのであった。それでも暫く経ってから、
――俺は夢を見てゐなかったのじゃなくて、《吾》が表象する《闇の夢》を見て嗤ってゐたのだ! 
 との思ひに至ると、何故か私は、私が眠りながら嗤ってゐたその状況を不思議と納得する私自身を其処に発見し、そして、これまた不思議ではあるが自分に何の疑問も呈さず納得するばかりのその私自身を自然に受け入れてゐたのであった。
――《闇》の《吾》……否、《吾》が《闇》なのだ! 
 私はたまにではあるが《闇の夢》を見る事がある。それを夢と呼んで良いのかは解からぬが、《闇の夢》を見てゐる私は夢を見てゐる事をぼんやりと自覚してをり、その《闇の夢》を見てゐる私は、只管(ひたすら)、闇が何かに化けるのを、若しくは何かが闇から出現するのをじっと待つ、そんな奇妙な夢なのであった。
 多分、その日の嗤ってゐた《吾》を見出した《闇の夢》は、《闇》から一向に《吾》が出現しない様がをかしくて仕様がなかったのであらうとは推測できる事ではあった。
 それは何とも無様な《吾》の姿に違ひなかったのである。夢とはいへ、闇の中から出現した《吾》が《闇》でしかないといふ事は嗤ひ話でしかなかったのである。しかし、《闇》から出現する《吾》がまた《闇》でしかないといふ事は言ひ得て妙で、而も、私にとってはある種の恐慌状態でもあったのだ――。
――《闇》=《吾》! 
 私にとって《吾》は未だ私ならざる《闇》のまま、未出現の形象すら出来ない曖昧模糊とした、否、私は《闇》そのものでしかなかったのである。
 しかし、これは一方で容易ならざる緊急事態に外ならず、《吾》が《闇》でしかないこの無様な《吾》を私は嗤へない、否、嗤ふどころか、わなわなと震へるばかりであった筈である。それにも拘らず《吾》は《闇の吾》を見て嗤ってゐたのである。そもそも《闇の吾》を嗤へる私とは何ものであらうか? 不図そんな疑念が湧く事もなくはなかったが、それ以上に予測はしてゐたとは言ひ条、《吾》が《闇》である事に唯唯驚く外なかったのであった。
――《闇》から何も出現しない! 何故だ! 
 夢見中の私はさう《闇の夢》に向かって叫ぶべきであった筈である。しかし、実際はさうはせずに只管《闇の夢》を見てゐる《吾》を嗤ってゐたのであった。
――何故嗤へたのであらうか? 
 もしかすると私は《闇の吾》に《無限》を見出したのかもしれなかったのだ。否、多分、私は《闇の吾》を嗤ひながら、《無限》なる《もの》と戯れ遊んでゐたのであらう。いやそれも否、私は唯《闇》なる《吾》に翻弄される《吾》を嗤ってゐたのであらう。それは《闇》といふ《無限》を前にあたふたと何も出来ずに唯呆然とする外術のないこの矮小な《吾》の無様さを嗤はずにはゐられなかった筈である……。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 《闇》以外何も表象しない《吾》を見て、その《闇の吾》を《吾》と名指ししてしまふ事のをかしさが其処にはあった筈である。そもそも《吾》を《吾》と名指し出来てしまふ私なる存在こそのをかしさが其処には潜んでゐたが、しかし、《吾》を《吾》としか名指し出来ない事もまた一つの厳然たる事実であって、その厳然とした事実を私は未だに受け入れる事が出来ずにゐる証左として、私は《闇の吾》の夢を何度となく見てゐるのかもしれなかったのである。
 それにしても《闇》しか表象しない《吾》を夢で見ながら嗤ってゐる事は、私にとってはむしろある種の痛快至極な事でもあったのである。
――《闇》=《吾》! 
 さて、闇の《吾》とは一体何であるのか改めて考へてみると、それは誠に奇妙な《吾》としか形容できない全くの無様な《吾》なのである。例へば私が私の事を《吾》と名指してゐる以上、それは何かしらの表象上の《面(おもて)》を持った何かに違ひないのであるが、しかし、私の意識の深層のところ、つまり、無意識のところでは《吾》は《面》のない闇でしかないといふ事なのかもしれなかったのである。問題はその事をこの私が持ち堪へられるかといふ事なのかもしれなかったが、《闇の吾》の夢を見て嗤ってゐる処を見ると、《吾》が闇でしかない事を私は一応納得し、而も《闇の吾》を楽しんでゐるのは間違ひのない事であった。
 其処で一つの疑念が湧いて来るのである。
――夢の中での《吾》とは一体何であるのか? 
 更に言へばそもそも夢は私の頭蓋内の闇で自己完結してゐるものなのであらうか、それとも夢見の私は外界にも開かれた、つまり、この宇宙の一部として《他》と繋がった《吾》として夢といふ世界を表象してゐるのであらうか。仮に夢が私を容れる世界といふ器として表象されてゐるのであるならば夢もまた世界である以上、《他》たる外部と繋がった何かに違ひないと考へるのが妥当である。換言すると、夢見中の私は無意識裡に《他者》、若しくは《他》と感応し、若しくは共鳴し、更に言へば《他者》の見てゐる夢の世界を共有し、若しくは《他者》の見てゐる夢に私が出現し、もしかすると《他者》の夢を私も見てゐるのではないかといふ疑念が湧いて来るのである。つまり、夢を見てゐるのが私である保証は何処にも無いのである。
――これは異な事を言ふ! 
 といふ反論が私の胸奥に即座に湧き出るのであるが、しかし、よくよく考へてみると、夢が私のものである保証は何処にも無い、つまり、夢といふ《他》との共有の場に私が夢見事訪ねると考へられなくもないのである。
 ここで知ったかぶりをしてユングの集合的無意識や元型など持ち出さないが、しかし、それにしても私が夢の事を思ふ時必ず私は「夢を《他》から間借りしてゐる」といふ感覚に捉はれるのは如何した事であらうか。この感覚は既に幼少時に感じてゐたものであるが、私が夢を見るときに何時も朧に感じてゐるのは《他》の夢に御邪魔してゐるといふ感覚なのである。この感覚は如何ともし難く、私に夢への全的な没入を何時も躊躇はせる原因なのだが、私は夢を見てゐる私を必ず朧に認識してゐて、「あ、これは夢だな」と知りつつ或る意味第三者的に私は夢を見てゐるのであった。
――ちぇっ、また夢だぜ。
作品名:嗤ふ吾 作家名:積 緋露雪